生きている人間は必ず過ちを犯します。時に凶悪犯罪に手を染めてしまうことすらあります。大小の違いはありつつも、誰しもが避けられないものです。
できることならそのようなことにはなりたくないわけですが、気づかずにそのようなことにもなっていたり、やはり抗うことはできません。
しかしこの「過ち」というのは、あくまでも人間の取り決めの中で生じているものだということ。人間社会だけにあるもので、ある見方では真実的ではないということ、単なる「概念」でしかないということ、またある見方ではそれは「存在してはいないもの」だということです。
例えば「オレオレ詐欺」を代表する詐欺事件は、確かに犯罪であって、とても罪深いものであるけれども、そのようなことはジャングルに足を踏み入れた途端通用しなくなってしまいます。サバンナや、ネコちゃんに「オレオレ詐欺」は通用しません。
また一方で、正義や利益、名誉というものも同じです。もしかしたら「悟り」についてもそうなのかもしれません。人間だけのルールで、同じようにジャングルに足を踏み入れた途端消滅してしまうもの、猫ちゃんには通用しないものです。
それでも犯罪を犯せば冷遇され、実際の生活に支障をきたします。逆に功績を残せば讃えられ、厚遇され、実際の生活が円満になります。
なので我々にとっては実は「それ」は無いとも言えないし、有るとも言えないことなのです。
我々は、普段からそういう絶妙な世界線を生きているわけです。このようなことも人間ならではの「本能」、ある意味では「存在しているもの」と言えるかもしれないということです。
それにもしかしたら、猫同士の間にもそういった、我々に決して感知できない「何か」が、あるいは「独自の世界線」が存在しているかもしれません。
いずれにせよ、人間や猫も含め、我々は同じこの真実の世界に生きております。お腹が空くこと、消化をすること。時に疲れれば横になり、健やかであればまた活発になることができます。我々における概念や、思考もその「呼吸の内」です。ここでの一挙手一投足はいずれも「真実」です。
過ちや、犯罪というのも、そういう過程の一部だということです。
また、ここでは我々は必死に生きているわけです。必死に生きていない動物がいるはずがありません。必死に生きているからこそ、知らず知らずそうしたものにも手を染めてしまうわけです。
例えば必死でない人間、仏様や、神様のような、天竜人のような人がそのような犯罪を犯さないと思います。そうした過ちは必死であればこその結果なのです。
ある意味ではそれは必死に生きている証拠の現れ、この世界に親しんでいる現れとも言えるわけです。
人間は誰しもが生きることに必死で、だから時に誤ってしまうのです。
決して犯罪を助長するわけではありませんが、我々は時にこのような過ちに寛容になってあげることも大切なことなのかもしれません。


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