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若草の布団で眠る生活/徒然なる日記

役職や境遇、職業に縛られず、時に宿を持たずに大自然の月明かりの下、若草の布団で眠ること。橋の下で新聞紙にくるまって眠ること。毎日を必死に生きること。あるいは毎日を「楽しむ」こと。

この世界において、全てが同時のこの世界において、仏のみのこの世界において、これ以上に「仏法的な生活」はありません。仏に親切な暮らしもありません。これ以上尊くて、偉い生活もありません。あるいはこれこそ本当の僧侶の、あるいは勇者の態度なのかもしれない、そう思うのです。

そしてそんな生活をするのに頭脳はいらない、高度な設計もいらない、お金もいりません。むしろ貧乏が1番楽しいわけです。

学道の人はすべからく貧なるべし

高祖様がこのように言われるのも、この貧乏こそが実はこの生活を最も楽しめるからです。貧乏こそが真実に近いからです。最もこの生活に、仏の生活に浸透しているからです。

もちろん会社であくせく働いて、日常に忙殺しても良い。裕福であってもいい。あるいはこのようなことに気づかなくても、悟ることができなくても、仏法にすら出会わずとも、時に敵対すらしてもいい。ここは「全体の全体」だから。1つのみの世界だから。それも仏だからです。そのようなことも「全て」と同一だからです。

例えば春になれば花が咲くのもそう、鳥の鳴き声が自分の耳を震わせるのもそう、日に日に老化が進むのもそう、疲れていれば寝てしまうのもそう、何があっても我々はこの真実のみの世界にい続けることができるわけです。どんなことがあっても私自身が「仏」だからです。あるいはどのようなこともそれは「仏の作用」、あるいは「仏としての跳ね返り」だからです。

この世界は全体の全体で、私は今、この瞬間に「全て」と同時なのです。私とは「全て」なのです。

仮にこのようなことに気づかなくても、それはむしろその分浸っているということです。悟っていないということは、その分浸っているということです。この1つのみの世界から離れようとしていないということです。それは仏法のみ、仏法に埋没している。場合によっては最も仏法的だということだからです。

この点もよくよく気をつけなければいけません。「悟る」とは一体どういうことなのかということを。

事実、悟ったとしても、悟らなかったとしても、どうしたって老化していきます。鳥の鳴き声が耳を震わせます。そして私は私(「他は是我にあらず」)なのです。私は全て、「全体の全体」という事実は決して変わらないのです。

要するになんだっていい。全てがいい。永遠に真実です。永遠に全体の全体です。死してもなお仏です。安心して生きていけばいいのです。

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