フランスでも大人気な「禅(zen)」について

大自然の人、真実の人、全体の全体の人、たった1つの人、人間のそれの人、心のままの人、ありのままの人。抽象的ではありますが、私は仏法者について、あるいは「人」の本当にあるべき姿というのは、「そういうもの」であるべきだと思っています。

時に良寛さんさえもそうでしたし、あるいは当時多くの人に尊敬され、親しまれていた巌頭禅師も、最後に死ぬ時は、賊に襲われてしまうわけですが、そこではもがき苦しみながら亡くなったと言います。喚きながら、抗いながら、もがきながら死んでいったのです。

しかしそれでいいのです。それじゃなきゃ本物じゃないのです。禅者などともてはやされて、痛みに耐え、カッコよく静かに横になり、あるいは坐禅をしながら、1人でいい、死ぬ時は孤独でいいと強がるのは偽物です。どうして「生」を着飾る必要がありましょう。それは「仏」を着飾ること、「仏」に嘘をつくこと。「仏」を騙すことと変わり無いのです。いわんや禅に通じる者が「そういった死は本物の禅者ではない」という批判をすることなど、到底信じられないことなのです。

我々は針を指に刺して「イタタタッ!」となります。それは我慢すべきことでしょうか。そもそも我慢できることでしょうか。我々は爪の先から、骨の髄まで仏法そのものなのです。あるいは仏に支配された、あるいは一方的なありようをしているわけです。それが自然なことだし、それだけでいいことだし、またある意味でそれほどまでに美しいこともないわけです。

そのようなことは禅的ではないと、禅者などではないというのであれば、禅とは悪夢です。偽物です。それは仏法ではありません。本物からすれば排除すべきもの、無くすべきものです。

あるいは「遠慮」ということもそう。遠慮というのが時々もてはやされます。それができるのがいいのだと。かっこいいのだと、古来より伝わってきた日本人の「侘び寂び」なのだと。そうした精神的なこと、精神的な余裕が肝心なのだと。

もちろんそれが美徳であるという考え方も頷けます。それができるのは人間だけですし、それができたから我々は共に生きることができた、こうしてやってこれた一面もあったはずだからです。

しかし何かにつけて「遠慮」をするのは良くないことです。いわんやそれが「禅的」などと言われてしまっている現状すらあります。

例えば犬や猫、他の生物にそんなものはありません。時に親が子供の餌を食べてしまったり、子供そのものを食べてしまうことだってあるのです。

確かに我々人間からすれば実に野蛮で、取り入れたくない文化だと思われるかもしれませんが、それでも彼らは常に真剣です。常に背いていないのです。大自然に、あるいは仏法に、常に忠実なのです。それが正しい姿。もとより仏法的姿。仏の姿。大自然の姿なのではないでしょうか。

そしてそうした真剣な姿があるからこそ、彼らの間には変なわだかまりや争いがないのです。我々は彼らに見習うべき点が多くあると言うことです。

人間だけにそうした隙間があります。そしてその隙間をどんどん大きくしてしまうわけです。あるいは偽物と呼べるような存在をいくつも作り上げられてしまうわけです。

時にそのようなことが見えない、わからないから、つまりはそのようなものの最たる「自分の考え」というものが暴走してしまったりするのではないでしょうか。

先日ニュース番組で知りましたが、今フランスでは、この日本固有の「禅的なる価値観のこと」を、「zen」という言葉で持って、広く親しんでいると言います。今や正式なフランス語として認定されているとも言います。

今、禅には勢いがあります。それはとても良いことです。そのおかげで今の禅団体や、もとより日本が評価されている部分もあるからです。それも一重に先人たちの苦労の上に成り立っていることでもあるわけです。

しかしこの禅というものが世界各国で注目される中、あるいはその正体をきちんとしておかないと、大変なことになりかねません。それをしていくのも我々日本人の、あるいは後世の人間の大切な役目なのです。

「禅」とは何か。

ただこの地盤に立っていれば(たった1つのたった1つ)、そのようなものは本来必要ないのです。

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