我々は何か物を判断する時は必ず自分の「物差し」で判断をします。「犬のうんちは汚い」とか「ダイヤモンドは美しい」とか。
そういった自分の「物差し」というのを人間であれば必ず誰しもが持っており、それを元に生活を送るわけです。
もちろんそのようなものがつきまとうのは、生まれ育ってからの習い性であり、ある意味仕方のないことでもあります。「人間癖」のようなものなのです。
しかしその「物差し」というのは自分にとって都合の良いものだけを寄せ集めて作られております。つまりは自分基準。さらにそれは手に取って示すこともできない。とても厄介な存在だということです。
その点「仏法」の基本は「無我にて候う」です。
大自然に倣った仏教においては、大自然そのものがその教えとなり、そしてかかるその大自然には本来そんな「物差し」は存在しないからです。
例えば突然に地震が起きることもそう、どんなに抗っても1秒ごとに風化をしていき老化をしていくこともそう。こうしたことに自分都合の「物差し」というものは通用しません。そこには自分の概念というものが一切介入できないのです。
我々人間は育っていく過程でいつの間にかこの「物指し」だったり「自我意識」という物が形成されてしまう。
そしてそれがあたかも「全て」だと思ってしまう。マイルールがこの世の全てだと思ってしまう。時にそれが人間関係、社会のシステム、日々の生活。そのような時に働き、暴走してしまうのです。
我々はいついかなる時も、必ずや自分本位であるため、あるいは生きている限り、我々は常に暴走し続けているといっても過言ではないのかもしれません。
そこをこの仏教はもとより、大自然そのものの働きが抑えてくれているのです。教えようとしてくれているのです。手を差し伸べてくれているのです。
我々は気づかないだけで、この世のあらゆるものは常に「変化」しております。あるいはこの世のあらゆるものは常に大自然の恩恵によって動いている。我々の自我意識や、概念というものは一切通用しない世界が、ここでは常に展開しているのです。それが「真実」だということです。
他でもない私自身がそうなのです。先に述べたように1秒ごとに老化していくこともそう、寝ている間に呼吸ができたり、その間に食べたものを消化していることもそうです。そこで事実として生きることができるのは、生あるものとして、生をしているから。あるいは大自然として、大自然しているからなのです。我々は決してマイルールで生きているわけではありません。
我々は大自然「その人」です。したがってそこでは刻一刻と変化し続けているというわけです。私を含め、あらゆるものは変化し続けているのです。
今目の前にある「石ころ」であっても「一秒後」には姿を変えている。あるいは突然に地震が起きることもあれば、そこで命を引き取ることもある。これがこの世の理なのです。大自然ということです。生きるということです。
我々のこの頭の中の「物差し」や「自我意識」というものだけが、それを拒んでいるのです。それは決して変化をしません。
もちろん「人間が何かを思う」ということも大自然の一つの有り様のわけですが、それに留まること、固執するようなことがあってはいけません。この世界に「固執」するようなものは決してあり得ないからです。そのようなものは決して存在できないからです。
我々はそこを良くも悪くも諦めて(明らめて)いかなければいけません。
そしてそれができた時、我々は大自然と共に往生できるのです。もとより我々はそういう存在だということなのですから、そこでは正しい生き方ができる、本当の道が開かれてくるのです。
例えば「生」と「死」。そうしたものも実はこの世界にはないということに、それは人間の概念だということに、そこでは気付かされるのです。
事実、死んでも細胞は働き続けていると言います。仮に火葬され、荼毘にふされたとしても、そのお骨はどんなに遅くても2.000年の間には大自然に帰っていくと言います。それは死んでも大自然に帰っていく働きをしているということです。つまり死しても我々は生きているということなのです。
我々は常に流動的、大自然そのものです。大自然として大自然しているのが我々なのです。生も死もありません。そしてずっとそうなのです。常に我々は大自然と共にある。大自然として生き続けるのです。それが我々の命、あるいは生死なのです。
良くも悪くも、人間の概念は通用しません。
従って、苦しむはずがないのです。あるいは安心して苦しめばいいのです。


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