世界は「全体による全体」です。
私の記事を初めてお読みになった方は、いきなり何を言っているんだ!と思われるかもしれませんが、それが事実です。そして「事実」というわけですから、どなたにも無視はできません。また絶対的なものです。その事実というのが「全体による全体」なのです。
従って我々一人一人の存在としても「固執したもの」としてあるのではなく、常に流動的かつ全体的な、収まりようのない、全てが全ての、全てが同時に起きているカオス的な存在だということです。
例えば我々が生きるためには酸素が必要ですが、その酸素というのはいくらか自動車の排ガスも入り混じっているでしょうし、排煙や埃も入り混じっているはずです。さまざまなものや、成分がそこには含まれている。時に市外か、県外か、国外か、どこからやってきたのかわからないものたちがこうして混じり合いながら、鼻腔に通じているのです。そこで個別の存在しか認めないというのであれば、我々は地球のあらゆる場所で生きていくことはできません。しかしそうではないわけです。
またお米というのは、いきなりあのような姿になるのではなく、太陽や、水、虫たちの力によってあのような姿になる。そこではここからここまでが「お米」という境界線を引くことができないわけです。人間に至っても同じです。1つ1つ別の細胞によってできており、それぞれが独自に活動している。そうして形成されているのです。
それらは常につながり合っているのです。また「全てとの繋がり」が可能であったから、生まれているのであって、生まれてこれたのであって、形になれたのです。今こうして形になっていられるのも、生きていられるのも、常に「それ」があるから。何かと繋がり続けているから、成し得ていることなのです。
我々は「繋がり」なのです。全ては「繋がり」なのです。
事実や、形式というのは例外なく「全てとの繋がり」なのです。事実というのは「全てとの繋がり」があって生じているのです。事実というのは、そこでは「全てと繋がり続けている事実がある」から、生まれているのです。
我々の正体というのも「全てとの繋がり、全てと繋がりあっている生き物」なのです。あるいは「全体」と言ってもいいかもしれません。
この世のあらゆるものがそのように成り立っているわけです。「それだけ(全体)」がこの世で、たった1つ存在しているものなのです。
創造主的なものではありません、そのようなものに生かされているわけでもありません。私自身がそうで、全てがその私だからです。
ここはただ「全体」のみです。私がその全体です。
2つに分かれないということで、それをみることも、感じることもできない。「創造主とする」ことができないのです。
これを冒頭の「全体による全体」というわけです。
こちらの↑3つの記事をお読みいただければ、今の部分をもう少しご理解いただけるのではないか、と思います。
また我々はよく生活をしていると、様々な感情に直面します。怒り、憎しみ、嫉妬、哀楽、喜び。そしていつもそれは「自分がやっていること」だと思うのが一般的なところではないかと思います。
俺がそのように思う、俺がそのように思った、俺がそのように思っている、というように。
しかし前提は「全体による全体」なので、それは「俺が思う」ということではないということです。そもそも「何か」でもないということです。「感情」でもないということです。それはただただ「全体の全体」なのです。
「全てとの繋がり」という現象の1つだったということです。あるいは「全体」そのものなのです。それは世界がやっていたことなのです。私が怒り、憎しみ、嫉妬、哀楽、喜んでいたのではありません。世界が世界していたのです。それは「全体の全体」なのです。
私もその一部ですから、あるいは私自身が「そのこと」ですから、知覚することができない、掴むことができない、感じることができないのです。
「思い」というのは、そのような意味で、存在しないものなのです。またそれは避けられないもの、どうしてもそうなってしまうもの、思わされてしまうものなのです。
人の感情や、思い。それというのも、世界そのものなのです。この世のたった1つものなのです。
全体の全体。確実なもの。もしくは、繋がりによってできている。「繋がりそのものである」という意味で、それも生命の実物です。世界の真実です。
従って、常にそこでは私が怒っているのではない。全体の全体なのだということ。あるいは世界が怒っているのだということ。世界が世界をしているのだと、どうすることもできないのだという、こうした寛容な姿勢を持ってほしいのです。
これが正しい「感情との向き合い方」です。
怒りや喜び、そういった感情を自分のものにしようとすること、自分のものだと思ってしまうこと、そこから感情を支配しようとしたり、自分に収めようとしたりすることが、我々人間にとって最も大きな誤りです。
そして「これは俺が怒っているんだ、俺の怒りだ。俺は今どうしようもなく怒っているんだ」そのような勘違いによって、人を殺めたり、傷つけたりしてしまうのです。
ここで述べている本来の感情のあり方を守れば、そのようなことは決して起きません。
これも大切な仏道修行なのです。
翻って、「何かを思うこと」は決して悪いことではありません。それは大自然が大自然していることだからです。防げないことだからです。仮にそのようなネガティブな思いたちも生命の実物だからです。それはただ全体の全体だからです。
だからこそ、それは自分のものではないのです。放っておかなければならないのです。追ってはいけないのです。
そのように捉えていくことで、我々はより豊かに生きることができるのではないでしょうか。


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