「怒り」とは?「感情」とは?感情は「生き物」、「仏」。

「怒り」も大切な仏の作用です。

そもそもこの「怒り」に限らず、感情自体が仏の産物だということです。

この感情は人間だけにしかないもので、他の生物にはありません。また実際に手に取ることのできないものです。

例えば今回の「怒り」に関しても「怒り」という言葉を知っているから我々はこの「怒り」というものを形式的に把握できるわけです。

そこでは言葉を持っている人間だけが、「怒り」というものを可視化できるわけですね。

なので言葉によって与えられるもの、それが感情だということです。人間だけにしかないもの、あるいは日本人にしかないもの、中にはそういったものまであります。

そのためこの感情は存在していないものだという風にも捉えられやすいです。

かつて達磨様が慧可様に、その不安に思う心を見せてみよ、といって核心に迫らせる局面がありました。感情というのもはこのように目に見えないのです。

しかしちゃんと存在しています。そしてこの仏のみの世界で、存在しているものは全て「仏の産物」です。つまりこの感情も仏の産物だということです。

そこで、いきなりですが私は「ゴーゴーカレーの豚肉ごろごろカレー」が大好きです。

さて、現に今あなたの頭の中には、カレーが思い浮かんだはずです。

感情や概念というのは、自分ではどうすることもできない「流用物」なのです。他によって存在させられてしまうものなのです。

自分ではどうすることもできない物なのです。

ですから、これも立派な仏の産物だということなんです。

他によって存在させられるもの、つまり大自然によって存在させられるもの、仏に存在させられるものだからということです。

これを踏まえ、今回の「怒り」についてですが、これはとても厄介な存在です。

突然、降ってきます。

以前上記の記事でも紹介しましたが、その影は常に日常に潜んでおります。

本当にいつどこで突然出くわすかわかりません。

そんな怒りとの向き合い方が我々人間にとって、最も重要な課題です。この怒りが人を狂わせるからです。

その際、それをなくしたり、祓おうとするのではなく、向き合うことが大切です。またそれが仏教です。あるいは勇者の使命です。

なぜなら、それを無くそうとすること、祓おうとすることというのは、つまりなかったことにしようとするということだからです。その存在を認めないということだからです。

繰り返しになりますが、この怒りも「仏の産物」だということです。すべてが仏の子供であるこの世界においてそのような対処はありえないわけですね。あってはならないわけです。

怒りも大切にしなければならない。きちんと向き合わなければならないわけです。

大切なのは「向き合い方」というわけです。どのようにこの怒りと付き合っていくかということなのです。

それでは具体的にどうその怒りと向き合うのかというと、簡単なんです。

それは爆発物のような、あるいは「花火」のようなものだと思い、浮かんだら放っておけばいいわけです。

浮かんだら浮かびっぱなし。

これでいいわけです。花火はそうなるしかありません。それが道理なのです。

怒りも同じです。浮かんだら浮かびっぱなし。気づけばなくなっています。それが道理です。これが生命の実物の姿です。これが「感情」の呼吸なのです。

感情も「生き物」です。そこでは自由に呼吸をさせておけばいいのです。それに人間が手をつけたり、追ったりするからおかしなことになるのです。それらは自分とは別の生き物として捉えるのです。人間が手を加えることは基本許されません。

追わないということ。これが我々の感情との向き合い方なんです。感情を唯一持った我々人間が「生きる」ということなんです。

今回の怒りだけではありません。破廉恥な思いも、残酷な思いというのも、それは流用物です。また自身が思いたくて思っている物でもありません。

この仏の世界において、仏の方からやらされている、確かな仏の産物なのです。

咄嗟の怒りも自分がやっているわけではない、若者、老婆、地震、雷…他によって怒らされているんです。大自然にそうさせられているのです。

そもそもこの自我のない世界において、「自身が思う」という行為自体が成り立たないわけです。そのようなルールがもとよりあるわけです。

浮かんだら浮かびっぱなし。追ってはならないということ。これでいいわけです。

怒りは「花火」だと思えばいいわけです。実際に全てはその花火と繋がっている、「一つもの」なのですから。

目次

余談-感情の有無に関して-

今回の記事では「怒り」について取り上げました。冒頭ではこの「怒り」の所在に関して触れ、それは「怒り」という言葉を持っている人間だけに与えられたものであると話しました。しかしそのアプローチはやはり「まやかし」なんですね。事実ではないのです。正しくないのです。それは人間の、さらには日本人だけに存在しているものだからです。確かにその所在を証明できるものはどこにもないということなんです。感情があるか無いか、それが本当にわかる人はどこにもいないということなのです。

それでも「今こうして実際に怒りが込み上げてくるではないか。この現象は何か。」この疑問は当然ながら生じます。この対決について、つまり感情がこの世界に存在しているかどうか、しかしこれはあまりにも不毛な話です。事実としては、有るとか無いとか、これは事実から離れて、あるいはその場から離れて、これを傍観者としてみた時に行われることだということです。そもそも「ある」とか「ない」とかそういう話し合いができないのです。

天地同根。万物一体。鳥の鳴き声が耳を震わせる。鳥の「今」が自分の命を起こしている。

本記事の最後でも述べたようにこの世界は全て1つもののわけで、傍観者に我々はなりたくてもなれないわけですので。

「ゴーゴーカレーのカレー。」こう言われた時に頭に生じるもの。これは何か。今、ここで思っていること、これを有るというのではないか。それに関しては残念ながらそうではないということですね。人間の「有る」は本当の有るでは無いのです。それは単なる人の物差しです。

有るかないかを本当に探る時、「有る」とか「ない」とか、そういう頭の中の話し合いや詮索がそもそもズレているということなんです。

有るといえば有る。無いといばない。これが人から見た時の感情の在り方なのです。これ以上のことは言えないのです。言葉の限界です。なので我々としては「有る」といってもいいし、「無い」といってもいいということになるわけです。

天地同根。万物一体。今、ここ、この自己。それが全ての答えであり、大自然であり、感情だということです。今、ここで肌をつねること、それが感情の有無だということです。

本来の感情の所在は大自然にあるんですね。あるいは自分という存在そのものだということです。そこから離れないのです。実際にはそれは感情は感情ではなく、大自然の呼吸なのです。そこから分かれる「これ」という単体がこの世界には何もないということなんですね。全ては今、ここ、この自己の展開なのです。

感情の有無についての探り合いを本ブログではこれまで多くしておりますが、有るといえば有る。ないと言えばない。それでいいのだと思います。本記事では「有るといえば有る」という視点でお伝えしてきたことです。しかしそれは単なる人間の物差しだということ。事実ではないということ。実際に感情というのは「大自然の命」そのもので、それを定義づけるものはないということはおさえておきたいですね。

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