我々は「何か」を食べることで生きていくことができます。
また時に筆や本というのもそのために役立つもので、生活の糧になってくれます。そのようなものも我々を生かす道具で、ひいては彼らも我々そのものだということです。
そして、そもそもそんな物たちが、きちんとそこで「存在すること」をしてくれているからこそ、我々はそれを食べることができたり、使うことができたりするわけです。
例えばもしその「食べ物」や「本」が、前日から当日にかけての間で、溶けてなくなってしまっていたら、あるいはその場からいなくなっていたとしたら、我々はそれを食べたり、読んだりすることができず、うまく活かすことができません。挙げ句の果てには死んでしまうことでしょう。
しかしちゃんと明日になってもそこにいてくれる。形を残し続けてくれます。決して裏切られることがありません。絶対です。
この当たり前と言えば当たり前のことも、実は見逃してはいけない大切なことです。我々はそれがあるから生きていくことが出来る。存在することが出来るからです。
どんなことがあっても必ずやそのようになっている。そのようになってしまう。「当たり前なこと」として、この世界を見守ってくれています。
それはそこに「欠けるもの」もなければ「加わるもの」もない、完全無欠なるものとして、そこにあるからです。つまり「全体の全体」だからです。
決して「個別の全体」でも、「全体の個別」でもないわけだからです。「全体の全体」以外のことがないからです。それは「全て」だからです。
これがこの世界の「鉄則」であり、真実であるわけです。それによって他者も、あらゆるものも存在することができる。私も存在することができる。そしてつながることができる。こうして何かを思うことができる。何かを聞くことが出来るのです。「今、ここ」があるわけです。
春になればきちんと花がさき、夏になれば蝉が鳴き始めることもそう。
必ずそうなる。絶対にです。繰り返しになりますが、それはここが完全無欠の世界だからです。そこに「欠けるもの」もなければ「加わるもの」もない、完全無欠なるものとして、そこにあるからです。これからもあり続けるからです。「それ」こそ、「それ」のみだからです。
だから平穏無事なのです。
この平穏無事の世界のことを、仏の世界と言います。常にそうした「絶対」に見守られ、そもそもその「もの」としてあり続けるのがこの私や、あなた、その他一歳なのです。
完全無欠。全体の全体。
「それ」だけだから、「それ」はあるのです。事実が生まれるのです。真実が生まれるのです。
「それ」だけだから、こうして何かを思うことができたり、生きることができる。または、こうして春になれば花が咲き。夏や他の季節が訪れる。
「それ」だけだから、完全無欠なのです。「それ」だけだから、または「他には何もない」から、絶対なのです。そしてあらゆる物事や、存在が果たされるのです。事実が生まれるのです。真実が生まれるのです。
「それ」、1つもの。たったそれだけ。
お互い、全てが、同じもの同士。全く同じ状態同士。同じ物。あるいは「私そのもの」ともいえる。我々は同一ということで、繋がりそのものということ。
この世は「同時」だということです。「全体の全体」だということです。我々は「仏」だということです。
我々はそのような大きなものとして、また実に解放的な命を生きているにも関わらず、右往左往している。そんなことには一向気付かずに人生を終えてしまいます。
うまく申し上げられずすみません、、文章力の鍛錬はまだまだ必要そうです。



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