「たった1つ」というのは「それ以外ないということ。」あるいは「そこには本当にそれ以外のことがない」ということになるわけですが、この世界はそのたった1つのことです。「世界」と言う以前に、「たった1つのこと」です。全ては「たった1つのこと」です。
具体的に言えば「心配はいらない」ということです。以下でその詳細について語っております。


我々はよく悩むわけですが、そこでは「それ以外」のことがあると思うから、悩んだり迷ったりするわけです。そこでは別の「何か」が存在してしまっている、別のことが「ある」と思ってしまっているわけです。従ってそこから「悩んでいる自分」というものが見えてしまう。「悩む」ということが存在しているように見えてしまうのです。
しかしここでは常に「それ」のみなのです。あるいは結果が全てで、その結果には優劣がないとも言えましょう。よって悩んだり、迷ったりしなくていいのです。あるいは思い切り悩んだり迷ったりすればいいのです。常にそこでは自信を持つべきなのです。
例えば会社の帰りに音楽を聴きながら近くの公園に行くのも、そこで大好きな曲が流れてくるのも、偶然そこで中国からの旅行者や、あるいは普段会えなかった人と会えることも、確かに運が良かったから会えたわけだけで、それはもう二度とあり得ないことかもしれません。
しかしそれはあったのです。それしかなかったのです。たった1つのことなのです。
そんな時に会社で怒られていること、地震に遭うこと、不慮の事故に遭うこと。こうした不運はできれば避けたいことですが、それでいいのです。それしかなかったのです。それはたった1つのことなのです。
今あなたがそれをしているのも、逆にそれをしていないのも、あるいは今それができるのも、それができないのも、今そういう状態にあることも、ないことも、それでいいのです。それしかありません。たった1つのことです。
趙州禅師が「いかなるかこれ祖師西来意」と聞かれて「庭前の柏樹子」と答えました。また同じくかつての禅僧が「如何なるかこれ仏法の大意」と問われ、「棒」でブチ叩いたり、「喝」と叫んだりすることがありました。
これは「この世界が全て仏法であるということ/仏法以外のことがないということ/またはその庭の花に仏法があるということ」を述べるものですが、もっと細かく言えば「それにはそれしかない」ということ。あるいは「真実がきちんと真実としてある」ということ、またあるいは「仏法は仏法である」ということ、そうした働きのことを述べているのです。それらは実際にそれを常に手中しているということを述べているのです。
ないものはないわけですから、そのようなことは一切の空論です。それはないのです。
それが「ある」ということ。あるいは「たった1つ」がたった1つだということ、これだけが存在しているのです。「庭前の柏樹子」が「庭前の柏樹子」であること、この働きが仏法なのです。
従って「ただこれ、庭前の柏樹子」なのです。従ってこの世は常に真実なのです。このようにしてこの世界は全てが仏法だと言えるわけです。
我々には「そのような場合」があります。そして「そのような場合」にはそのような働きしかありません。「庭前の柏樹子」は「庭前の柏樹子」以外のことがない。ここでは必ずや仏法は仏法だということ、真実は真実なのです。その約束が覆ることはありません。その働きのみなのです。
それをたった1つのことだというわけです。
真実が真実であるということ、「庭前の柏樹子」は「庭前の柏樹子」であるということ。見えるのはこれだけです。
これだけがたった1つのことなのです。それ以外のことがないのです。あるいはそれは他には他がないということ。他はこれ我にあらず。自己には自己しかないということです。これだけが我々にはあるのです。これだけがたった1つのことなのです。
先にも述べたように、我々の生活にはいろいろな事情が交錯し、いろいろな姿形が現れてきます。過去も未来も多岐にわたります。悩みというのもやはり尽きないことでしょう。
しかしどのような時でもそれが「ある」ということ。そしてそこでは真実が真実している。その働きのみです。1に対しては必ず1になっているのです。生きている以上は約束は常に果たされている。たった1つのことのみです。
つまりあらゆるものも、あらゆる状況も「それでいいということ」です。安心していいということです。
安心して悩んでいいし、悩む必要もないのです。我々が身を置く場所としては、どこもそうだということ。それは「ある」ということ。
つまり我々には「それ以外のことがない」のです。我々にはたった1つのこと以外がないのです。
そしてそれが我々のいまここ、我々の命、あるいは「庭前の柏樹子」、あるいは「いま、ここの坐禅」ということです。
これら「かかるもの」と「かかられるもの」は、今ここ、あるいは今、ここの坐禅しかありえない、捉えようがないからです。我々という存在の中で、存在しているのは今ここしかないからです。あるいは今ここの坐禅しかないからです。仏法には仏法しかないからです。

その生の働きが「本当のたった1つのこと」だからです。
いまここで坐禅をすることがたった1つのことです。あるいは全て。あるいはいまここで坐禅をする人が全てのひと、真の自由人。勇者です。
たった1つのことが、たった1つであること。あるいは、たった1つのことがたった1つをすること。またあるいは「庭前の柏樹子」が「庭前の柏樹子」であること、それが「坐禅」です。それが誠のこと、この世の全てなのです。
坐禅はやるべきことでもない、使命でもない。悟りを得る手段でもない。
それはこの世界のたった1つのことなのです。
今回は自分よがりの、少し聞き苦しいお話となりました。申し訳ありません。


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