
以前↑こちらの記事にも書きましたが「何かを見ること、何かが薫ること、針で指を刺すと痛みを感じられること、味を感じれらること。生きること、死ぬこと。」我々にはこのような感覚や、決まり事が初めから備わっております。
例えば「熱湯」に手が触れた時、熱さを感じずにいれば大火傷をしてしまいます。また「針」だらけの壁が目の前にあったとして、それが見えなかったらぶつかってしまい、大変危険です。
先ほどのどれか1つでも備わっていなければ生きることはできないわけです。それらは我々にとって必須なものです。何よりも大切なものです。
しかしこうして初めからちゃんと備わっている。
またその感覚や決まり事が、歳を追うごとに成熟してくるといったこともありません。幼少期から痛いものは痛いし、熱いものは熱い。完璧になっている。むしろ幼少期の方が、痛みに強かったり、感覚が鋭かったりする。精神も平穏だったりします。
同様に、歳を重ねるごとにそれが失われるといったこともありません。どんなに歳を重ねても針を指に刺せば痛い。痛いものは痛い。熱いものは熱い。
我々は生まれながらにして完璧で、すでにその道の達人なのです。生まれてから死ぬまでずっと「真実としての真実」なのです。
時に、なぜそのような有り様をしているか、必ずそうなってしまうのか、論理ではとても説明はできないことです。今後どんなに科学が発展しても説明できないことでしょう。
我々はこんなにもありがたい命をいただいている。また人間だけではありません。猫も犬もツバメも、植物も、本も、机も、真実として真実。その道の達人たちです。
我々は真実です。無条件でそうなっております。無条件で真実として生きている。無条件で最高として生きている。あるいは常に全てとしての全てになっている。生命として、紛れもない生命になっている。ある意味、そこでは常に「最大限」なのです。またある意味で、我々は初めから救われてるいるわけです。
そこにはもはや「生も死」もありません、死ぬこと、あるいは壊れることすらその真実の延長だからです。それも「真実という命」だからです。実際の仕組みとしてみた時も、我々は死んでお骨になった後も、気がつけばまた大自然に帰っております。この真実が一刻も離れることがありません。
つまり私はすべてである、私は仏である、私は全体である、私は悟りであるということです。
悟りなどいりません。仏とは何か、真実とは何か、そんな詮索もいりません。私自身がそうなのです。今この瞬間がそうなのです。過去も、今も、この瞬間からもずっとそうなのです。
しかしそこで胡座をかいてわがままに生きていけばいいというわけではありません。何もせずにいればいいというわけではありません。
今というのは今しかないからです。過去には過去しかないからです。未来には未来しかないからです。私というのは私しかないからです。真実には真実しかないからです。
そうした「悟りともいうべき命自身の私」を「悟りとして」としなければならないし、仏としての仏、もっとわかりやすくいえば私としての私、今としての今、自己の正体としての自己の正体をしなければいけないからです。
あるいは「それ」を「それ」として、たった1つのことをたった1つのことして、庭前の柏樹子を庭前の柏樹子としてたらしめることが本来になってくるからです。そこにはそれ以外のものがないからです。
つまり「それ」は「なければ」いけないからです。あるいは我々は「生きていかなければいけない」からです。
それが「坐禅」をすることなのです。坐禅をするということは我々が生きていくということなのです。今が今だということ、あるいは自己が自己であるということ、有るが有るということ、無いが無いということ、風が吹くということ、水が流れるということ、コーヒーが苦いということ、庭前の柏樹子が庭前の柏樹子であるということ、たった1つのことがたった1つのことだということ、真実が真実だということなのです。あるいは「我々の今」が「我々の今」、あるいは「我々の命」が「我々の命」だということなのです。


仮にささやかでも、今回の話を念頭に置くことだけでもいいと思います。時に、何かを忘れること、何かに対し気付けないこと、イラっとすること、そうしたことも同じように我々の生命にあっては自然なことです。またそのような動作も生きる上ではなくてはならないものです。それも坐禅です。そこでそのようなことに巻かれることも、たった1つのことなのです。
たった1つのことがたった1つのこととしてあること、坐禅が坐禅であること、「只管打坐」。あるいは私が私として、庭前の柏樹子が庭前の柏樹子としてあること。それが我々の命です。我々の今です。あるいは我々がこの世界で捉えることができる唯一のものです。全てです。あるいは我々のなすべきことです。我々が生きているということです。
我々はややもすると、それを見失ってしまいます。失うはずがないのに、人間の手にかかると失ってしまうのです。
我々はたった1つのことをたった1つにしていけばいいのです。真実として真実をしていけばいいのです。それでも我々が生きていく時にはそうなっているしかないわけですから、何も心配がいらないのです。
要するに「心配なく生きていく」、ということをすればいいのです。あるいは黙って足を組めばいいのです。何があっても我々には今、ここ、この瞬間に、今、ここ、この瞬間があるのです。何があっても真実は真実なのです。
生きていると嫌なこと、辛いこと、色々なことがありますが、何があってもそれでいいのです。我々はそれでいいのです。


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