坐禅をすると「世界」が救われる/本当の仏教者とは?道元禅師の功績

今はお盆の時期です。そのお盆の由来となっているものに「盂蘭盆」という仏教行事があります。

これはもともと、サンスクリット語の「ウランバーナ(倒懸・逆さ吊りの苦しみ)」という少しネガティブな意味の言葉を語源としておりますが、そこには「ある1つの逸話」が隠されているのです。

昔「目蓮尊者」という仏教者がおりました。お釈迦様と同時代に生きておられたお方です。「十大弟子」の一人で、「神通第一(じんづうだいいち)」と呼ばれておりました。

この目蓮尊者には「神通力」があったと言われており、あらゆるものをその力によって予見できたり、予知できたり、透視できたりする力があったと言われております。

目蓮尊者はすでに実母を亡くされておりましたが、常々その母のことを気にかけておられたようです。今をどう過ごしているか、そうした心配をしておったのです。それでも間違いなくお母さんは天に生まれて、極楽の生活を送っているに違いないと信じて疑いませんでした。

しかしふと心配になった尊者は、ある日「神通力」を使ってお母さまの様子を伺い知ろうとします。なんとそこには「餓鬼道」でもがき苦しむお母さまの姿があったのです。なぜあんなにも優しく、罪も犯さず、敬虔なほどに仏教を信仰していた母が天上ではなく、しかもよりによって「餓鬼道」にいるのか。疑いと、驚き、同時にとても悲しくなってしまいます。

そこでお釈迦様にご相談をされるわけです。

確かにお前の母は自分の息子、お前のことを優しく育てた。自分のこと以上に気にかけ、大切にした。それは親として当たり前のことだ。しかし他人の子供など顧みることなく自分の子供をひいきしてしまった。そのせいでそのようなことになってしまったのだ。

とても理解に苦しむ返答でした。現代であれば考えられないような内容です。

しかしそれも同時に、確かな事実のわけです。何かを育てたり、優しくするということには、差別がどうしても必要になってしまうのです。

お釈迦様は「その母を救いたければ仏行を行うお坊様たちに供養しなさい」と言われました。仏行には「人間模様」がない。そうしたひいきがない。大自然の大自然。真実の真実。ただの「ただ」。あらゆるものに関与しない。加担しない。翻ってあらゆるものの中心となる事柄だというのです。

よってその仏行や、仏教法要にはあらゆるものを救う功徳があるというのが、お釈迦様の訴えでした。以来そうした催しが人々の間で重く扱われるようになったのです。

今こうして自分が無事にここにいることは、間違いなく母に優しく、愛され、育てられたからです。その結果です。あるいは実母でないにしても、亡くなられた先祖がそこにはいたからです。その理論でいくと、そうした方々は間違いなく「餓鬼道」にいるということになります。よって我々にとって「盂蘭盆」というのは誰もが必ずやらなければいけない大切な行事になるわけです。

お盆の時期が大切な期間で、今でもこうして欠かさずに行われるのにはそうした由来があったわけです。

時に「坐禅」も同じくそういう意味で大切な行事です。これは何の意味もない、なんの生産性もない、営利目的にもならない、なんの足しにもならない、まさに「仏行」だからです。この仏の仏の世界において、ただ坐るから、ただ仏となっているから、ただ「ただ」しているからです。ただ真実の真実だからです。この世界をそのまま世界にしているからです。あるいは人の願いや、人の思惑、人の裁量とは無縁の行だからです。

よってこれには先と同じ効果があるわけです。あらゆるものを救う効果があるというわけですね。それとしての「それ」。供養としての「供養」。「それ」として、あるいは「供養」としてこれ以上のあり方はありません。坐禅以上のご供養はないのです。昨今広く一般的な施餓鬼法要や、葬儀法要と何ら変わらないものがこの坐禅にはあるわけです。あの小さくてつまらない、畳一畳の中に、こんなにも多大なものが含まれているのです。

この坐禅だけをしていればいい、あるいは「只管打坐」だという理由は、こうした意味合いがあるからなのです。そしてそこには「何にもならない、ただのただ」という意味があるがゆえなのです。

この坐禅は誰もが組むことができ、誰もが組んだ瞬間にそのようなことになります。そのような恩恵にあやかることができます。階級も資格も、お金もいりません。立場もどのようなものであってもいいのです。

そのようなこともあって、坐禅をしていることが仏教なのです。坐禅をしていることが本当の「仏性」なのです。すべてのこと。仏教の最果て、最も意味するところ。あるいは我々としての「我々」。人の最も意味するところなのです。

坐禅を組んでいる人間は皆ブッダです。あるいは菩薩です。これは決して独りよがりの行為でもなければ、独りよがりの修行でもありません。先にもあったように、この世界における「すべてのこと」としての行為、時に修行なのです。あるいは世界を世界している、この世界のたった1つをたった1つしているものたちなのです。本来のことをしている。正しい人間なのです。よって世界を救わんとしているものたちなのです。実際に世界を救っているものたちなのです。

事実この世のすべての者たちがこの坐禅を生活の中心に据えれば、確かに生産活動は衰えるかもしれませんが、それでも安心と心の豊かさのある、平和な世界が実現してくることでしょう。「真実の真実」がそこには実現してくることでしょう。

在家だろうが、出家だろうが、この坐禅をするものは皆、仏教者です。あるいはブッダです。菩薩です。本当の仏教者とは坐禅をしていなければいけないのです。

従って、坐禅をするもの、またこの坐禅を布教する者は皆、本当の仏教者だと言えるでしょう。

ブッダ様やダルマ様はもちろんですが、「只管打坐」の教えを説いた道元禅師の功績は多大なものです。日本において曹洞宗寺院が最も多い宗派となったのもそうした背景があったからなのかもしれません。

道元禅師ほど、本当の仏教者はいなかったのです。

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