よく仏教は「縁起」の教えだと言われます。世界の真実や原理に着目したものが仏教ですから、そうするとその世界の真実というのは「縁起」ということになります。
この話には強く共感する次第です。
この世に存在するあらゆるものは、単独として存在しているわけではなく、他との兼ね合いによって、つまり「縁起されているもの」だということ。全ては「縁起」という事象なのだということ。あるいは全体の全体として生きているということ。区切りなく、全体の全体としてあるのが、この世のすべてだということ。私もそう。お米もそう。またそこでの私の行いもそうだということ。私は「存在」ですらないということになります。
例えば私というこの人間は、詳しく見ていけば複数の細胞によって成立しております。また常に呼吸をし続けているのが私ですが、寝ている間にもその呼吸ができるのはそうした細胞たちが、私が寝ている間にも働いているからだし、市外か、県外、国外、どこからやってきたかわからない酸素がカオス的に混じり合って、この鼻腔の中までやってきているからです。それで呼吸ができるのです。そこではそれぞれの細胞が自分の意思とは関係なく、自分を超えて、働いてくれているからです。
仮に「私」という固定された命だったり、この命が限定的なものだったとしたら、即座に呼吸はできなくなり、窒息死してしまうはずです。
またお米も同じであって、そこには種があって、土があって、太陽の光があって、虫たちがあって、水があって、あのような姿になります。「お米」という限定的なあり方はどこを探しても見当たらないわけです。
何よりも、もしここにある命が本当に「私の命」だとしたら、それは自分の思いのまま、自分の意のままにできるということのはずですから、老いるなと命じて、実際にそうすることができたり、痛がるなと命じて、実際にそうることができたりするはずです。しかしそのようなことは決して叶いません。「それ」を操ることは決してできません。それは「自分」ではないのです。
我々はこうした全体の有り様をしております。個を超越した命。流れ続け、止まることのない命を生きております。別の何かの命を引き受けて生きているとも言えるかもしれません。これが縁起であり、世界の真実、また仏教の真髄です。どこを探しても「自分」という存在は見つけることができないのです。この「思い」や「考案」、「思慮」というのもそうだし、この実際の「行い」もそうだということです。
前提としてまずこれがあるわけです。
他方、同じく仏教の真髄としてあるのが「輪廻転生説」です。我々が今こうしてあるのは前世の行いに依るもので、例えば今生きるのが苦しいのは、これが関係しているからだという考え方です。苦しいのにはきちんとした理由があって、それは未だ六道輪廻の中だからだというのです。
なのでその限りにおいては煩悩を断ち切り、精進して、つつましく生きること。そうすることでこれまでのあらゆる業は滅し、来世において今度こそ六道輪廻を脱し、苦しみを断ち切ることができると、そのように説いているわけです。
時に仏教の真なる部分とも言えるもので、これまで多くの人を教化してきました。「良い行いをしろ、戒律を守れ、誰も見ていなくても徳を積むこと」このような話は人間の地脈となり、それは大いに受け入れられ、これまで多くの共感が集まっていたわけです。これが仏教の仏教としてはもちろん、過去現在未来、いつにあっても我々の生活指針になって、我々の人生に対する期待を担いました。今もなおそのように固く信じられ続けております。
悪いことはするなと、慎ましく生きなさいと。そういうわけですね。
より具体的には出家をし、修行をしながら、戒律を守り、煩悩を滅する。出家でなくても、誰もが日々の生活の中でできる限りの戒律を守り、煩悩を滅し、精進する。すると前世の業を燃やすことになり、輪廻を終わらせることができるというのです。
しかしそのようなことのためには出家と在家、善と悪、修行と悟り、業と輪廻といったように、あらゆるものが顕在化、分別化されなければいけません。「単独のあり方」が存在してこなければなりません。またそれは生を操り、死を操っているということでもあります。
そこには「矛盾」が生まれてしまうのです。
先に述べたようにこの世界の根本原理は、諸法無我だからです。あるいは全体の全体、ここは全て「縁起」だからです。我々の存在自体はもちろん、ここでは単独の存在というものがなく、思想や活動を含め、我々の一挙手一投足というのも、そうした様相だからです。「これ」だと掴むことも、それを排除することも、操ることも、滅することもできないものだからです。
時に何もどうすることもできないものだからです。仮に「輪廻」が本当にあったとして、それはどうすることもできないということです。あるいは「生き方」や「死に方」などどうすることもできないものだということです。
例えば私であればこのようにして仏教と出会い、自分の意思で仏道を歩むことができます。やる気を持ち、今のところそれを制止する人もない。頑張ればもしかしたら本当にこの輪廻から脱却できるかもしれません。不思議とそういう縁に恵まれているわけです。まさに「縁起」の賜物だと言えるでしょう。
しかし中にはそこで情熱が芽生えず、また他の邪魔もあったり、そもそも他宗教であったり、仏教はもとより、このような話に大きな疑いを持っている人もおります。むしろ世界の宗教人口で言えば仏教徒など5億人程度しかいないのです。そんな人はこの話から除外されてしまうことになります。
本来、そうしたこともある意味では自然の話で、ある意味では全体の全体、縁起だと言えるはずです。それも真実だということです。そうした人も同じ場所で生きているのがこの世界であり、真実のはずです。
我々は結局は、自分で何かをどうすることなどできないということなのです。この「業報輪廻」についてもどうすることもできません。あるいはこの「業報輪廻」が指し示す対象の「過去を生きていた、今を生きている、未来を生きていく存在ですらない」ということなのです。その時点で「業報輪廻」自体が「業報輪廻」を否定しているのです。「業報輪廻」はそのようなものではないということです。
実際に我々が何かを操れていることなど1つもなく、今生きていることもそうだし、明日生きることも約束されていない命を生きております。自分で生きているわけではないということです。自分でどうにかしていたり、どうにかできる部分など何もないということなのです。ましてやそんな中、こうした大胆な指針を設けて実行したり、それに沿って今生や、まだ見ぬ来世を変えていくことなどとても難しいことなのです。ある意味では不可能なことなのです。
ここでは「思う」より先に思わされている、「行う」より先に行わされている、「見る」より先に見させられているわけで、それら全ては自分が思っているのではない、自分が行なっているのではない、自分が見ているのではないということです。
それは「それ」ではないのです。それは「何か」ではありません。そのようなものは「ない」ということなのです。「ここには何もない」ということなのです。「輪廻」というのも掴もうとするもの、あるいは思考で捉えようとするもの、向こう側にあるものではないのです。「輪廻」という「単独した存在」はここにはないのです。
今、世界全体で大災害が頻出しております。かの仏教国では日々六道輪廻を信じ、それを信じ、慎ましく生きてこられた方々も、残念ながらそこで多くの命を落としています。それは誤りの人生だったのでしょうか。前世の行いが悪かったせいで、また輪廻を巡るだけだというのでしょうか。そのような一言で片付けてしまえるものなのでしょうか。
おそらくそうではないはずです。また仏教というのもそんな小さいものではないはずです。
仏教は真実です。その真実とは「全体」なのです。ここには「何か」がありません。「単独の命」というものはあり得ません。向こう側にあるものは何もありません。全ては「こちら側のこと」です。全てはたった1つなのです。心配する「何か」がないのです。否定する何かがないのです。「何か」がないのです。今のここを、あるいはこの命を、あるいは過去世や現世を否定することができないのです。仮に輪廻転生をしようがしまいが、どっちだっていいことなのです。輪廻転生したのならば、それこそ「たった1つのこと」だからです。輪廻することが真実だからです。
仏教には「生死即涅槃」という言葉があります。これはこの儚くも脆い人間の命(生死)の中にこそ、まさにこれまでここで述べたきたような、我々が願ってやまない「涅槃」があるという意味の教えです。 今生きているこの瞬間、瞬間に、生死があり、また涅槃があり、全てがあるというのです。だから生に執着することもなく、死を厭うこともなく、涅槃を願うでもない、この完璧な今を一生懸命に生きていけばいい、そういうことを述べております。全ては「こちら側」だということです。
我々は「それ」でいいのです。「ここ」でいいのです。「この命」でいいのです。全て「こちら側」なのです。我々の「今ここ」こそが、真実であり、業であり、縁起であり、煩悩であり、はたまた概念であり、今回の輪廻でもあるのです。つまり何も心配がいらないのです。「向こう側」というものがここにはないからです。
自我、意味、真実、原理、因果。縁起と業。古今東西、そうした概念的な仏教について意見が激しく交わされますが、そのようなことは「人の心理的経過」であって、単なる人の思想です。全体による全体によって、本来向こう側には何もないにも関わらず、それをあるものだと信じて、それを掴もうとしている愚かな行為です。何にもならない後付けです。説明書きです。そのような議論は仏道や真実とは関係がありません。仏法は思想ではありません。説明書きではありません。「今、ここ」なのです。我々は常に「こちら側」なのです。常に「それ」なのです。
もちろんそうした「思い」も生命の実物としての位置付けのわけで、時にそのような議論も認めていくべきものなのかもしれませんが、そこでは1つの考え方に固執することはできません。またそこでは流れるままに「思わされ」なければならないのであって、正解も正解であって、間違いも正解なのです。やはりそうした議論も、説明書きも、この度の「輪廻」という考え方も、そこではこれが正解だという道は用意できないのです。議論はやはり無意味なのです。
また何もそんなに難しくしなくても、本当に議論をしたいのならば、あるいは何かの正解を導き出したいというのなら、私が今こうして握り拳を握って、目の前に突き出すことです。もちろん「坐禅」でも良いわけで、そこで足を組むことです。
そこでそうすること。そこで「ある」をすること。それだけが「ある」ものです。そして「ある」にしか「ある」はありません。「ある」にしか「何も」ありません。ここに「ある」のは「ある」だけで、それだけが確かなことで、それだけがわかっていることなのです。そこに全ての真髄があります。それが「全て」を引っ提げてくれております。そこに全てを詰め込んでくれております。輪廻とか業とか、そのようなものを全てひっくるめたものが、そこには現成しているのです。我々の「全て」がそこにあるということです。
ここには「向こう側」というものがありません。「こちら側」だけなのです。「今ここ」が全てなのです。今ここが「輪廻」なのです。涅槃しようが、再度輪廻を回ろうが、同じことで、そう思うとやはり「輪廻」なのかもしれません。
我々にはたった1つのことしかありません。輪廻しかありません。あるいは涅槃しかありません。こちら側だけなのです。今、ここだけなのです。それは「呼び方の違い」だったのです。何も心配はいらないのです。図らずも今できることをやればいい、日常を一生懸命生きていればそれでいいのです。それだけを熱心に行っていけばいいのです。何も意識的に生きなくても、来世を願ったり、輪廻転生を図ったり、難しく考えなくともいいのです。議論も不要です。仏教哲学も不要です。
そしていつか死ぬ時が来れば、その時は安心して死ねばいいのです。それがたった1つのこと、つまり究極の真実であるからです。そこには「それ」しかないからです。そして「それ」だけがあるものだからです。
輪廻転生からの脱却を目指した生き方、あるいは修行。時にこれまで信じられてきた仏教。研究者たちの日常。そうしたものをもちろん否定するつもりはありません。それも今を生きていることに他ならないからです。縁起が縁起していること、真実が真実していることに他ならないからです。
しかし私は我々の命、修行、研究、仏教というのはもっと壮大で、もっとおおらかなもの、そんな小さいものではないと思うのです。田舎道の参道で、お母さんと子供がそっと手を取り合い歩いている。その途中でお地蔵様に手を合わせる。優しく微笑みあう。そのような言葉では喩え用のない世界線が本当の仏教です。彼らには教説も何も必要ありません。本能でそうしているのです。哲学や、議論、教説というのはそうした本来の仏の心、我々の本能をうやむやにし、むしろそのようなものを壊してしまう破壊行為な気がしてならないのです。
ここには何がどうなっても、全てを優しく包み込む、悲しみや、苦しみ、輪廻さえも包み込んでくれるものが確かにあります。それが我々一人一人の命であって、我々の今「ここ」なのです。仏さまなのです。詰まるところもっと安心して生きていけばいいと思うのです。
仮に永遠に輪廻を回り続けることになっても、それが「ある」のならば、それは正解です。どんなに苦しくても、それが「ある」のならばそれは正解なのです。ここには「ある」しかないからです。「こちら側」しかないからです。そこには輪廻しかないからです。我々にはたった1つのことしかないからです。それは仏さまだからです。
また仮に輪廻を脱したとしても、永遠に輪廻を回ったとしてもそれは同じことだということです。それらはどちらも救いなのです。釈迦さまもこのこと自体を本当の輪廻転生説と言われたのではないでしょうか。
どんな立場になっても、どんな苦しみに身を置かれても、大災害に見舞われても、どんな場所にもそれは「あり」ます。一方で「ない」には「ない」ということ。真実のみです。常にここには仏がいます。私はそう信じております。
何があっても絶対安心です。それが本当の輪廻であり、本当の仏であり、この世界です。
古今東西、仏教書や、才能豊かな人の解説によって、お釈迦さまのお言葉、仏教の真髄について語られてきましたが、実際にお釈迦さまが語られたことは何一つわかっていない、そうしたものは後代の人間による想像物に過ぎないという点については、よくよく注意が必要です。今回や輪廻や涅槃がそうですが、我々は輪廻や真実として、そうした人間の言葉による言葉でもって、それが真実であるかのように、邁進し、そうした軌跡を追ってしまうわけですが、本記事でも述べたとおり、仏教書や解説をはじめとする言葉というもの、それ自体がもはや誤りで、ある意味ではとても危険なものだということです。
ここで拳を握ること、あるいは「坐禅」だけを信じてください。


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