「私」という時点で「仏」。全部仏シリーズ⑦

今回は少しこんな風に考えていきたいと思うのです。それでもとても大切な、世界のあり方、あるいは「真実」についてです。

仮に「仏」と「自分」とが別にあったとして、また私は仏ではなく、単なる凡人だったとしても、その仏を尊いと思い、仏になりたいと思っている自分がここにおります。つまり仏を仏たらしめているのは実は、その愚かな「自分」だということです。

例えばこの呼吸は「鼻」と「酸素」があってできるわけです。どちらか一方ではそれはままなりません。「鼻」と「酸素」両方が呼吸には必要なのです。

また「善悪」という言葉がありますが、その時に「善」を存在させているのは「悪」で、「悪」を存在させているのは「善」です。つまり両者は同じだということです。

私がなければ「仏」はあり得ないわけですね。「私」の時点で私は「仏」なのだということです。

また私は今回のことを話したい時、お釈迦さまが飢えていた時に、自らの身を焼いてお釈迦さまにその身ごとを施した「野うさぎ」のことを思うわけです。そこからお釈迦さまの命になったわけです。彼こそがお釈迦さま、つまり「仏」だったわけです。

凡人でも仏に通じることができる。凡人でも仏になることができる。仏ではない凡人だからこそ「仏」になることができるのです。

「坐禅」というのはいついかなる場所でもすることができます。もちろんどなたでもすることができます。その坐禅をした時点で「仏」というわけですから、どこもかしこも、誰もかれもが仏という1つの「過程」なのです。仏とは我々なのです。我々の「今」なのです。マンションの一室でも、狭い場所でも「そこ」は仏なのです。

その坐禅の実際とは「足を組めば痛い」ということであり、あるいは健康な時こそ熱心に坐って、疲れれば寝てしまうことでもあります。

ここでは全ての有り様が正しく動いているわけです。万事安心なのです。

ここでは誰であっても、どこからであっても仏に通じてしまいます。何があっても仏に通じてしまいます。つまりここは何があっても仏なんだということです。

生きているということが「仏」なのです。我々は「仏」という生き物、性質、運命なのです。生きているという時点で、あるいは私という時点で「仏」なのです。この世という時点で「仏」なのです。

生きている間は、そのルールを断つことができない、仏に通じる道を誰も断つことができない。仏に常に繋がっているのが我々の命だということ。ここは「仏」というルールなのです。「仏という1つの作り」のみなのです。

仏(全体)のみ。全てがその仏として連なっているのです。決してそのつながりを断つことはなどできない。そこでは凡人である私はどうしても繋がれてしまう。私である私はどうしても繋がれてしまう。どうしても仏であってしまう。仏から、あるいは全体から個別になるなんてことができない。どうしても鳥の鳴き声が耳を震わせる。どうしても冬になれば寒いわけです。

仏から逃げることなんてできない、どうしたって仏にならないことができない。

例えば今、この体に目を移しても、この心臓を動かすために、さまざまな器官が必要で、またそれらが万事そこで働く必要がある。心臓単体で動いているわけでは決してない。つまり心臓とはこの体全体のことなのだ。あるいはその他の器官が動くためには酸素や血液、食べ物が必要だったりする。

何かが存在するためには全体の力が必要なのです。全体があるから存在ができるのです。我々はその結果なのです。我々は「全体」なのです。

どうしても全体に生かされる、全体につながっている、仏に生かされる、仏に繋がっている我々なのです。

私は愚か、ここのどれもが全体としての個別。個別とは全体の一部見え方なのだと。

何があっても仏なのです。

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