手を合わせる生き方、仏教のある生き方、「人」の生き方

効率化を求めるあまり、今の人間は枝を剪定しすぎた樹木のようになっている。もしかしたら我々というのは現実的な、物理的なことはどうでもいいのかもしれない。例えば亡き母親の遺影に向かって毎朝「おはよう」と語りかけること。それによって1日が始まる。本人はイキイキしてくる。それがあるいは人の本当の豊かさで、また人を人たらしめている行為だ。このようなことを教えること、本来の人の豊かさを伝えるのが仏教者の役割である。「参考:曹洞禅グラフ

私は普段「本当の人の豊かさとは何か」、「本当の人の生き方」ということを考えますが、その答えを今回上記の文から教えてもらったような気がします。

例えば子供の人間と、大人の人間とでは「脳」の仕上がりが違います。確かに大人というのは子供に比べて頭もよく、色々な言葉を知っており、いろいろな考察をすることができます。そこでは視野も広がっていて、物事を多角的に捉えることもできるようになっています。

しかしそうした知識が増える、論理的に物事を考えられるようになるということは、同時に感覚的ではなくなる、直感を大切にしなくなる、信仰的ではなくなる、感覚が鈍るということを意味します。例えばそれによって、今まで楽しめていたことが楽しめなくなる、物事を純粋に楽しむことができなくなるという弊害が起こります。

実際に大人の中で、そのような生き方ができる人などほぼおりません。

その点、子供というのはいつも本当に楽しそうです。どの子供もそうです。我々が忌み嫌うあの「雨」でさえも彼らは愛することができます。我々ではあれば苦痛でしかない人生が、彼らにとってはまるで違って見えているのかもしれません。事実そうだったようにも思います。

「怪我」というものを知らない、「コロナ」というものを知らない、「放射能」というものを知らない、だからリスクも知らない。また時に「スタバ」を知らない、「フランスパン」を知らない、「外食」を知らない、「給食」だけしか知らない。だから楽しいわけです。だから楽しめるわけです。

事実、幼い子供の中で「死にたい」と思っている人は少ないはずです。豊かな生き方ができているのはどちらでしょう。

またテレビなどでみるモンゴルやチベットの遊牧民に対しても同じことを思うわけです。彼らは与えられた僅かな寿命と、資源の中でやりくりし、そのような中でも家族を作り、笑い合いながら、手を取り合い、仏教を信仰しています。言葉などほとんど持っていませんが、それでも当たり前に大人が他人を気遣い、隣の家族のことも自分の家族のように扱うことができます。

お金がなくてもいい、言葉を知らなくてもいい、ものが少なくてもいい、寿命が短くてもいい。

仮にお金がなくても、貧乏でも、それを知らなくても、あるいはそれしか知らなくても、ありがたいことに我々は幸福を感じることができます。むしろ言葉を知ることはその分、悩みを作るということです。比較脳を作るということ、敵を作るということです。ひいては不幸を作るということです。

考察力や、言葉を知ること自体に、救済的なことは何もなく、むしろ苦しみの世界に招き入れてしまうわけです。またそのための経済活動でもあるということです。

私は今の日本、もとより世界全体の人間活動というのはこうした問題を孕んでいると思うわけですね。

そこを冒頭の文とともに、解決していきたいわけです。あるいは仏教とともに解決していきたいわけです。

我々は今、何も信じられずにおります。先の見えない世の中に不安でいっぱいです。そんな中どうしても効率化と、お金と、そこでの快楽を短絡的に求めてしまう。冒頭のように「枝を剪定しすぎた樹木」のようになっているわけです。

例えば手を合わせることの意義、お盆を行う意義、お墓を作ることの意義、こうしたものは一歳顧みようとしません。そんなものは無駄だと当然思っていることでしょう。

しかしそこにはとても大切なことが隠されております。そこにこそ我々の本質さはもとより、本当の豊かさが隠されております。昔の人たちはそうしたことが見えておりました。そうしたことを大切にしておりました。暑い中、お盆の行事を欠かさずに行い、そこではナスを馬に見立て、きゅうりを牛に見立て、早く来てほしい、ゆっくり帰ってほしいと、心から本当に故人様を慕われていたわけです。目に見えないものを信じることができていた、心を信じることができていた、つまり「豊かさ」があったのです。人間として実に真っ当な生き方をし、実に魅力的な生き方をしていたのです。

今の豊かさは本当の豊かさではないわけです。

言葉を忘れること、経済を忘れること。ある意味では「子供たち」や「チベット人」のような生き方をしていかなければならず、あるいはそれが我々の豊かさ、本質的な生き方なのかもしれません。

我々は薄皮一枚で繋がっているだけで「大自然」そのものです。事実、4月の微妙な空気感を寸分なく感じることができます。大自然そのままの存在だということ、「大自然」その人だということです。その大自然というのは明日地震が起きるということ。また春になれば桜が咲くように、目に見えない因果があるということ。そのような目に見えないものによって作られているもの、論理で説明できないものに支えられているものが大自然であり、この世の全てなのです。人間社会においても同じことが言えるはずです。

「心」を信じろと言っているのではありません。信仰心を持てと言っているのでもありません。もっと事実を見てほしいのです。安直に生きないでほしいのです。そこでは自分という存在、他人という存在、あるいはこの世界を、あるいは「正しさの存在」を信じて行動をしてほしいのです。

そしてその事実を大切にし、ここでは自分一人ということではない、世界に生かされていること、周りの人間に生かされていること、先祖様に生かされていること、今ここには先祖様が生きているということ。このように思うことができるようになれば、自ずと今後やることも、そこで手を合わせることもできるはずです。その先に真の優しい安心が、あるいは我々の本当の生き方と、豊かな生き方が待っているはずです。

我々今、真剣に「生き方」というものを考えなければいけないようです。

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