私は、私の母がよく「手」を合わせる姿を見かけます。
朝住職が本堂でお勤めをした後の本堂で。あるいは檀家様からお野菜や、果物を頂戴した時。また毎日のお風呂の中にあっても、そこでは欠かさずに読経が聞こえてきますが、そこでもおそらく手を合わせていることでしょう。
住職や私と違い、母はいうならば一般の人です。出家はしておりません。しかしそうであっても重く仏法を信仰する。事あるごとに手を合わせる。合わせてしまう。目に見えない仏の存在を信じている。理屈抜きの生活をしております。
まさにこの自然界のようです。大袈裟ですが、菩薩、ガンディー、キリスト、マザーテレサのような慈愛に溢れた人の姿をこの母に重ねて見ており、実の母ながら、とてもありがたいお方だなと思っているわけです。
昔の人もよくそうでありました。家の中にお仏壇を作り、そこで手を合わせたり、「のんの様、のんの様〜」、「なむなむ〜」、「なんみょうほうれんげきょう〜」と唱えたり、毎日炊いたお米をお供えすることも忘れませんでした。そうしたことが生活の一部だったわけです。
今は残念ながらそのようなことは愚か、信仰心は薄くなり、手を合わせる機会も少なくなってしまいました。
もちろんそうであっても、どのようなものであっても、また時代など問わず、日常の全て、それは「仏としての仏」です。どのような形であっても、そこでは仏が仏をしているわけで、たった1つのことのわけで、このようにPCを打っていようが、商売をしていようが、お尻をかきながらスマホをいじったり、寝転んでいようが、そのようなことも言うならば「手を合わせている行為」に他ならないわけですが、それでもそうした姿、昔の人々の在り方や、お仏壇を飾り、そこで手を合わせる姿というのはやはり尊い。そのようなことに理屈抜きに「安らぎ」を感じてしまうわけです。
私は、昔の人のように、また今回の私の母のように、理論などお構いなしに手をあわせる、あるいは先祖を大切にする、そうしたことに「人の本当の能力」を感じます。そもそもそのようなことは「人」にしかできないし、また限られた人にしかできないからです。心に余裕のある人、感謝を忘れない人にしかできないからです。何事も一方的に、簡易的に、その中で策略的に、能率的に、理屈的に物事を捉えてしまう現代人にはとても真似できない行為であり、生き方です。
何よりもそうした「理屈なしの生き方/策略外」というものが、この世界の本質的だとも思うわけです。
実際にそうした姿はやはり美しいのです。そのような姿は見ているこちらの方が拝みたくなるわけです。それこそ悟りの生活、人として最も豊かな生活だと思うわけです。
日中大変熱くなったきました。もう理屈抜きに熱いです。こちらがどんなに暑さ対策をしてもそのような理屈は通用しません。無視されてしまいます。特筆する必要のない普段においても、理屈抜きに腹が減り、理屈抜きに食べたものを消化しております。
このように大自然も我々も理屈抜きです。こうしたことが本来のはずです。こうしたことが我々の目指すべき場所のはずです。
今起きている争い、社会問題、学校問題。そうしたことはすべて「策略的にものを考えてしまう」、理屈的、あるいは本質を逸脱した、我々人間の勝手な暴走によるものです。
仏壇の前で姿勢を正し、自然と手を合わせる。手を合わせてしまう。あるいは無駄ともいえる坐禅を組むこと。こうしたことが人として、仏として、本来として、正しい姿なのではないでしょうか。あるいは「歩むべき道」のはずです。そこにはきっと問題などなにも起こらないはずです。
またそれは我々にとって根源的でもあるということで、時に「悟り」という形にも捉えられるわけです。時にそのような場所にしか「人間の本当の豊かさ」も存在できないはずです。
そしてそのような「働きかけ」には、「能力」や「お金」はいりません。いわんや「悟り」もです。誰もが意図せずとも常にそのような状態にあり、そこで一番大切なものを持っているからです。大切な命、大切な人生を生きているからです。理屈が通用しない命、理屈が通用しない世界を生きているからです。
小さな子が焼香する姿 愛らしく 美しい
私も含め、現代の人は、改めて「人の生き方」を学ぶ必要がありそうです。


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