仏教と坐禅、そして輪廻。時に「真実」

「過去世の行為が現世のあり方を規定し、この現世の行為が来世のあり方を規定する。このような原因と結果の循環こそが、過去・現在・未来をつなぐ輪廻の正体であり、ひいてはこの現世世界の一歳を構築している。仏教の特質は絶対者を求めず、因果のメカニズムを可視化して、それを自らの力で断ち切る道筋を提示する点にある。最終目標たる解脱とは、厳密には煩悩を断じてその束縛から解放された状態を指し、広い意味では、その結果として到達するもはや輪廻することのない境地を指す。以上を踏まえると仏教の独創は第三者による救済ではなく、因果の道理に則った自律的解放を中核に据える点にある。」出典:「原始仏教」著清水俊史

仏教はよく「輪廻の教え」、「縁起の教え」だという風に言われます。

よく仏教書なんかでも上記のような考察があり、今や本当に上手に、くまなく、この「輪廻」や「縁起」、「仏教の奥義」とも言える部分が言語化されるようになってきました。さまざまな節であたかもこのようなことが「本当のこと」かのように思われてきます。

詰まるところ我々の一才は「今のこの瞬間」に集約されているわけですが、その「今」というのはいわゆる「生老病死」のことです。そしてそれは実は「苦しみ」です。それはそもそも我々の体が生理的に苦しむようにできているということもそうだし、自分ではどうすることもできないものだらけだからです。

よく「生きることは常に苦しみである」と言われるのはこれがあるからです。生きることは苦しみなのです。そしてこの一生が終わったとしても、輪廻する限り、再度またその苦しみの中に生まれてしまう。ましてや今度は人としてではなく、犬畜生としてかもしれないし、植物としてそれをやらなければならない。我々というのは救いようがないわけです。

人間はこうしたことを嫌だと考えました。どうにかして苦しみのある人生もそうだし、いわゆる「輪廻」を脱して、その苦しみを繰り返したくないと考えたわけですね。そこで「このような教え」が出てきたというわけです。

この「輪廻」が続く限りはその苦しみの連鎖を止めることができません。我々における「最大の敵」がこの輪廻という風にも言えるわけです。以来、人間間では常にそれを止める方法について考えられてきました。時にそのことが我々の集大成、お題目、仏教の奥義とも考えられました。我々の一切は、その連鎖や、輪廻、苦しみを止めるためにあって、そのための今生であって、人生であって、命であって、今であって、仏教の教えであると、そのように考えられているわけです。

そこでは苦しみから逃れること、あるいはこの輪廻を止めることが第一義であって、その目的です。今ある人生でそれを達成し、もう二度と同じ苦しみは味わわないと、二度と六道輪廻に生まれることは避けて、今度こそそこから外れて苦しみのない世界に生まれてこようと、解脱をしようと、そのように考えられているわけですね。

具体的にはそこでの唯一の悪源は煩悩であるから、それを滅することで、その根源は絶たれ、涅槃に至り、解脱に達すると考えられております。そのための修行であり、戒律であり、律した人生であるという風に述べるわけです。なのでできることなら出家して、煩悩を滅せよ、欲を滅せよと、そう述べるわけです。仮に在家であっても、出家者に布施をすることで同じような徳を積むことができ、この六道輪廻を脱することができると述べられたりします。

このような教えや考え方は、ブッダ在世の時代からすでに考えられており、それを起源に、古くからインドや中国、そして今日の日本に至るまで多くの人たちに伝播してきました。今でも多くの人々に親しまれ、これが「仏教としての仏教」だと思われているわけです。

しかしもとより「苦」というのは、そもそも人間の概念だということです。一方の極楽往生や安心、救いについてもそうです。そのようなものは本来「たった1つ」の出来事に対して、それを分つような行いであって、ある意味では存在していないものだということです。そしてこうした教えを信じたり、苦や救いというものを作り出し、そのかかる世界線を辿れるのも人間だけだということです。犬や猫、植物などの動物たちはそのような世界線とはお構いなしに平然とそこで生きております。今ここ、たった1つのこと、それのみ、本来の自然のみなのです。

もちろん人間は人間であって、他の生物との比較も必要はないわけで、そこでは人間としてのあり方や世界線を大切にすべきだということもわかるのですが、そうなると彼ら犬猫の世界というのも、我々からすると同じように苦しみがない世界だという風に言えるはずです。苦しみからの解放という点で言えば「畜生道」こそ目指すべき六道輪廻を解脱した世界と同等か、それ以上の世界線を擁していることになるわけです。

そもそもこの世界に自我などはなく、よって自我による行いもなく、全て縁起によってもたらされているというのがブッダの考え方であり、この世界や、それに着目した仏教の根本原理だったはずです。煩悩を滅したり、欲を抑えるといった、我々がこの世界で自分で何かをどうにかできるといった、自主的活動が本来何もできないわけです。そもそもここにおいては「苦しでいる自分」というものもいないわけです。

根本原理においては、こうした輪廻をどうにかしたい、なくしたい、離れたいと思うこと自体が人間勝手な妄想であり、実はそれが自然摂理に逆らっている行為、仏に反する行為かもしれないということです。

それに仮にそのようなものが本当にあったとして、そこで仮に「解脱」ができたとしても、そこに「生」があるのなら、必ずそこには今と同じ問題が付きまとうはずです。生が死だからです。また生が老だからです。生が病だからです。もしこの生老病死がなければそれは生まれていないのです。それは生きていないのです。ある意味でそれは「ない」のです。

よって解脱後の世界としての存在は「ない」のと等しいということになるのです。ないのであれば「ない」のだからそれは「ない」のです。真実ではないのです。これはそうしたものを目指す教えでもあるということです。

「あるもの」こそがあるもので、真実です。生老病死こそがあるものなのです。苦しみこそがあるものなのです。それ以外のことはないのであり、仮にそこが楽であっても、極楽であっても、平和であっても、それは考える必要もないことなのです。目指す必要もないものなのです。六道輪廻の目指す「涅槃」というのは「非真実」と同じものだということです。

このように六道輪廻というのは実にあやふやな教えです。それは人間勝手の考え方であるように思えて仕方がないのです。果たして本当に仏教と呼べるものなのでしょうか。

時に、もしこうしたことが本当のことだとして、仏教もそのためのものだったとしても、おそらく多くの人間が、彼らから言わせれば「とても罪深い存在」なので、必ずやこの六道輪廻を彷徨うことになるはずです。私もそうです。あったとしてもそれは特定の者だけしかおそらく手にすることができないものだと思うわけです。しかも本当に限られた人間だけがです。

「人間というジャンル」で言えば永遠にこの六道輪廻がそこには付きまとうはずです。人間は決してそこから離れることはできません。よって我々人間からすればこの六道輪廻というのは「永遠」なのです。我々と引き剥がすことのできない友なのです。むしろ「命」なのです。我々のアイデンティティであり、最愛の友であって、離れられないものなのです。あるいは離れてはいけないものなのです。解脱などしてはいけないのです。

「人間世界」としての世界がここで用意されてある以上、これもまたあって、またそこが真実である以上、これもまた真実であるということです。六道輪廻は真実だということです。六道輪廻は滅すべきものではないということです。

本当に人間というのは面白い生き物です。自ら進んで、本来存在していないものに縛られようとします。そうした架空の世界に入っていこうとします。

肝心な部分なのでもう一度触れますが、ここではそもそも煩悩を滅するということができません。ここでは自主活動というものが一歳できないからです。自分というものがなく、またその向こうにあるものがないからです。我々にあるのは涅槃も、自我も、救いも、苦しみも、何もかも全てひっくるめて「今、ここ」だけです。それがたった1つのことです。そしてそれを「本当のこと」とするだけです。「今、ここ」を「今、ここしている(坐禅)」のが我々における一切なのです。それが唯一の存在であって、時に唯一信じられるものです。

確かにここには欲深い人間とそうでない人間とがおりますが、それは環境の違いであって、時にそれはどうすることもできないものであって、縁起でもあります。全てはそうした大自然の一環のわけです。本来そうした欲というのは自我の範疇ではなく、縁起としてあるわけです。大自然としてあるわけです。

諸々の原因は自身に欲という煩悩があるからだ、それを断ち切ることが大切だという風に言われますが、この人生で、あるいはこの命で「欲」というコンテンツだけを抽出し、可視化し、それだけに焦点を当てて、それを滅するということが本来できません。全ては「続いている」、「溶け合っている」わけです。

むしろ欲を抑えようとする、欲を操ろうとする、欲を滅しようとする思いこそ、迷いであって、架空の産物であって、まやかしであって、時に最大の欲なのかもしれません。よく「煩悩を滅しさえすればいい」というような説き方がなされますが、そこにはこうした矛盾が生まれているのです。それは「自分というもの」があると思っている。間違いなくこれまで述べてきた大自然の根本原理に背いているわけです。

「自我がない」というその本来に立ち返れば、我々は、来世のことなど、真実のことなど、死んだ後のことなどを考える必要すらないのです。

残念ながら人間には恵まれている環境とそうでない環境とがあります。その中にあって、このような教えは支持されてきたのでしょう。仏教の奥義としての位置付けになりました。時に大切な教えです。

しかし本当の仏教とはそういったことなのでしょうか。そのような狭い、個人の救済を目的とするものなのでしょうか。この六道輪廻からの脱却は紛れもなく個人の救済です。そしてどことなく暗い嫌なイメージを持たせるものです。

私は仏教とはもっとおおらかなものだと思っているのです。「また来世で会いましょうとか、大丈夫今辛くても、生まれ変わることができるとか、死んだって平気だ、何があっても大丈夫、仏様が見守ってくれるとか、またこうしてめぐり合うことができるとか」そこではこうした言葉が相応しく、我々に勇気と安心を、どちらかと言えば、そうした明るいあり方としての教えであってほしいと願います。

それはこの大自然のことです。根本原理のことです。そしてそれは我々は常にたった1つだということです。何も心配がいらないということです。環境や境遇の違いがあっても、そんなことは関係がないということです。そのようなものはないということです。このことを本当の「六道輪廻」というはずです。全ては同じだということです。

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