例えば「1秒」ごとに風化をしていくこと。あるいは寝ている間にもどこからやってきたかわからない酸素を吸い、呼吸を行っていること。時に冬となればその寒さによってブルっと震えること。また常に我々はそこで何かを思い、何かを行動しているわけですが、それは他によって思わさせれ、他によって行動させらているから、そのようなことになってしまうわけです。
我々はどうしてもそのようになってしまう、どうしてもそこで何かを思わされてしまうこと、それによって行動をとってしまうということです。そうした抗いようのない「一直線的なもの」が我々の命だということです。絶対的な真実だということです。
それはどうすることもできないもの、それ以外のことがない、この世のたった1つの出来事、この世の真実ということで、大自然の有り様です。
私においても、また私を取り囲む環境においても、あらゆるものがそうした大自然の有り様をしております。それ以外ない有り様をしております。人によって違いはありません。個人差はありません。全てが同じ有り様で、大自然の有り様をしております。紛れもない「それ」としてあるわけです。真実としてあるわけです。大自然そのものとしてあるわけです。ここは大自然のみの世界、大自然というたった1つの生き物で、私も、私を取り巻く環境も、そのものとして生きております。
残念ながら地震も起きてしまうのです。
時に、仏法はこの大自然のありようを説く教えです。この世界のあらゆること、あらゆるもの全てが、そのようなものだと、大自然そのものだということを教えてくれる教えです。よって仏法もその大自然のことです。
その大自然とは今述べたように、全体としての有り様で、全体の全体で、そのたった1つの在り方です。個人にはとても収まりきらないものです。巨大すぎてとても太刀打ちできないものです。時にとても恐ろしいものです。
なので仏法もとても恐ろしいものです。人間勝手な教えではありません。
それでもここでは春になれば夏になります。また指示をしなくとも、頭が悪くても、頭が良くても、お金持ちでも、そうでなくても、こうして呼吸ができたり、食べたものを消化してくれる働きを持っております。そして仮に死のうと、骨になっても、また大自然に帰っていく働きを持っております。誰もが常に「そのもの」としてあって、これからも、また何があっても「そのもの」として生き続けていきます。
誰もがそのおおらかな、巨大なたった1つの「物事」として生きていく、誰もがその巨大なたった1つの「物事」としてあり続けるわけです。そこには始まりと終わり、どちらも含まれているということです。あるいは全てが含まれているということです。一方で何も含まれないということです。もっと安心していいということです。
我々は常に平常無事なのです。我々だけでなく世界も平常無事なのです。なにがあっても大丈夫なのです。仏法とはやはり「慈悲の教え」なのです。
そしてもちろん事実として、今目の前にあるもの、明日遭遇するもの、すでに遭遇したもの、そうしたあらゆる物事、手に触れるもの、頭の中に浮かぶもの、そうした全ての物事が今述べたこととして、それらは仏法だということです。
あらゆる事実は救いなのです。あらゆる事実は仏法なのです。ここでの「実際のもの」というのは、実際の仏法、実際の平常無事、実際の救いなのです。
しかし気をつけなければいけないのは「本当の真実のこと」です。我々は生きていかなければいけないということです。無意識な呼吸を、無意識にしなければいけない、全体の全体が全体の全体をしなければいけない、生が生をしなければいけない、事実が事実しなければいけない、仏法が仏法をしなければいけないということです。
今を今とすること、月を月とすること、あるいは私を私としなければいけないということです。つまり生きていくということです。本当に生きていくということです。

確かに今こうしている間にも、無意識にも呼吸をし、無意識にも消化し、無意識にも思い、行動をしております。そうしたことを無意識にもやってのけており、何も心配のいらない平常無事な世界に身を置いているということになるわけですが、そのことを正しく言語化するとすれば「仏法を仏法とすること、坐禅を坐禅とする」ということになるのです。あるいはそのことを真実として受け取るためには「仏法を仏法とすること、坐禅を坐禅とする」ということになるのです。あるいはここで何かをするとなれば、「平常無事を平常無事とすること」になるのです。「今を今とすること」になるわけです。
時にそれが言葉ならば、言葉でなければならないし、それが行いであるならば、行いでなければいけないからです。フィクションはいけないということです。
我々が本当に「生きている」ということは本当に仏法が仏法をしているということ、本当に今が今をしているということ、本当に坐禅が坐禅をしているということです。それがここでは生きているということ。あるいは消化をしているということです。
生きるを生きるということ、無意識が無意識をしているということ、坐禅を坐禅とすることだけが大切なのです。(只管打坐)
時にそうしたことによって、ここでは坐禅を坐禅することによって、我々はようやく何かを始められることができるのです。前に進むことができるわけです。あるいは終わらせることができるのです。救われることもできるわけです。
生の中にしか生はありません。今の中にしか今はありません。生きることの中にしか「生きること」はありません。我々は生きることによって、確かに生きることができるのです。坐禅も坐禅でなければならないのです。坐禅は組まなければいけないのです。
坐禅を組むことこそが唯一です。それが仏法です。そしてその中だけに我々の全てがあるわけです。「坐禅を組むこと」こそが我々の事実であり、我々の命であり、実物であり、唯一なのです。本当の「りんご」こそ、本当の「りんご」なのです。
我々には今を今とすること、自己を自己とすること、坐禅を坐禅とすること、月を月とすること、生きるを生きるより他がないのです。坐禅を組むより他がないから、坐禅を組むのです。だから只管打坐なのです。


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