こちらの一文は道元禅師著【正法眼蔵 生死の巻】の中にあるものです。
これは「我々が何かを思うこと、我々が何かをすること、我々が生きること、我々が死ぬこと。あるいは日常を活動すること、時に坐禅を組むこと。こうしたことというのは全て1本の道である」ということです。全てはたった1つのことだということです。全ては仏の活動だということ、仏の手のひらの中だということです。
あるいは「それでいいということ、それしかないということ、それすらもない」ということです。本当の大安心、まさに「仏そのもの」であるということです。
以前↑こちらの記事でも書きましたが、我々の一挙手一投足も含め、この世の全てというのは常に全てと重なり合って、全てと共にあります。「全体の全体」や「たった1つのこと」ということや、祖師方のお言葉であれば「同時」や「衆縁和合」、「因果の法」ということになります。
例えば今こうしている間に、我々を含め老朽化をしていないものはおりません。別のあり方をしているものは一つとしてないわけです。あるいは今そこで何かが見えていたり、何かが聞こえていることもそうです。
またよく話題にさせていただいている、物事の成り立ちに関してですが、お米は土や、太陽、水、虫、さまざまな働きによってあのような姿になります。そこでは際限的な命の有り様にはなっておりません。お米は水とも虫とも、太陽とも言えるわけです。
これは私たちについても同じです。そんな私の思うことと、何かを行うというのも、同じように他によってそうさせられてしまうもの。一挙手一投足においても、他によって作られているものです。
時に、春の絶妙な季節感を誰もが寸分狂わずに実感できるのも、我々と春との間に垣根がないからです。
この世の全てがこうした「全体的な有り様」をしております。大自然や、四季、大地震と同じ有り様をしております。全体の全体としてあります。それはまるでたった1つの命のようです。仏というたった1つの命のようです。たった「一人の人」が生きているようです。そしてそのたった1人の者の活動のようです。
仮に日々仏教とは無縁に生きることがあっても、他宗教に入信していたとしても、あるいは明日大きな地震が起きようと、いずれ宇宙が滅びてしまおうと、そこでもつまりそうした活動。仏のその活動、仏の御命だということです。そしてこれまでもこれからもずっとそうだったということです。
人には考えの違い、宗教の違い、日々の暮らしの違い、仕事の違い、お金の稼ぎ方に違いがあり、人によって日々生活の有り様、日々の充実度の違いがあるように思うけれど、実はそのようなものも別物ではありません。どのようなことであってもその実は、今述べた「全体の全体」という形なのです。たった1つということなのです。
冒頭の道元禅師のお言葉を借りると、そのような状態というのは「仏のいへになげいれて、仏の方よりおこなはれている」ということなのです。この世の真実とは「仏のいへになげいれて、仏の方よりおこなはれている」ということ。我々というのはどのような状態であっても「仏のいへになげいれて、仏の方よりおこなはれている」というわけです。
ここでは道元禅師は坐禅を組むことに対してを「仏のいへになげいれて、仏の方よりおこなはれて、」とおっしゃっておられるわけなので、つまりこの世の全ては「坐禅」だということなのです。この世の全ては、あるいは「我々の生死」というのは坐禅であるということを述べておられるわけです。
人によって坐禅を組んでいる、一方で坐禅を組んでいない。中には組みたくても組むことができない人がいます。私情があったり、会社の都合があったりして、そうできない。しかしそれすらも「仏のいへになげいれて、仏の方よりおこなはれている」わけです。つまり坐禅をしているわけです。
ここはどんなことがあってもその坐禅、たった1つのこと、言い方を変えれば「今」だということです。この今が「坐禅」だということです。あるいは「仏のいへになげいれて、仏の方よりおこなはれている」ということです。あるいは我々が生きているということです。
今が常に全体の全体、仏の手のひらです。たった1つのことです。
我々にとって大切なのはその「今」を「今すること」です。嘘ではなく本当のことにすることです。坐禅を坐禅とすること、正解を正解とすること、月を月とすること、人間を人間とすること、私を私とすることです。本当に「仏のいへになげいれて、仏の方よりおこなはれる」ということです。フィクションであってはいけないということです。
坐禅は組むべきものです。我々は生きていかなければいけないからです。我々は生きているからです。あるいは今は今だから、我々は我々だから、仏は仏だからです。
そしてそのためには自分(今、仏、全体)が自分(今、仏、全体)するしかありません。今(仏、全体、自分)が今(仏、全体、自分)するしかありません。全体(自分、仏)が全体(自分、仏)するしかありません。
従って「坐禅を組むという意思を持ち、実際に坐る」こと。それが本当の「今」であり、本当の「生きるということ」であり、本当の「我々」、あるいは本当の「人間というもの」だということです。
それでもそこには必ず坐禅がある。今がある。仏がある。自分がある。我々は安心して生きれば良いのです。


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