生れおち祖暁の二字は知らねども梅の梢にうぐいすが鳴く
これは江戸時代中期に活動した曹洞宗の禅僧、天厳祖暁禅師(1667年〜1731年)という方が残した歌です。
当時、黄檗宗門下に「曹洞滅却」の四文字を掲げられ、名実ともに腐敗していた曹洞宗門下でしたが、この祖暁禅師の詩歌によって「洞門にも人物あり」と認められ、その負のレッテルを剥がしてもらうことができたのでした。
この歌には「全て」が表れていたのです。個人的には、趙州禅師の「庭前の柏樹子」についても同じ意味合いだという風に認識しております。
黄檗宗であろうが、曹洞宗であろうが、キリスト教であろうが、イスラム教であろうが、ここでは何も変わりません。ここでは「梅の梢にうぐいすが鳴く」ということです。大きな力に支えられている全てで、またこの命だということです。我々も、この世界も、誰もが、何もかもが、大きな力に支えられているということです。それぞれの状況は誰においても、何においても変わらないということです。
ここにはこうした共通のルールがあります。それがこの「梅の梢にうぐいすが鳴く」ということで、大いなる力で、大自然の力で、仏の力で、仏法ということです。全ては仏に支えられ成り立っているということです。そこであるいは「たった1つのものとして」になっているということです。これが世界の前提で、それが「い」なければ我々もこの世界も存在ができないということです。もちろん存在している分にはその前提が必ず成り立っております。全てを司っているのが仏法なのです。またこれは道元禅師のおっしゃる「この生死はすなわち仏の御命なり」ということでもありましょう。
気づこうが気づかまいが、頭が良かろうが悪かろうが、それは変わりません。ちゃんとそこでは「梅の梢にうぐいすが鳴いて」おります。また我々自体においても同じです。気づこうが気づかまいが、頭が良かろうが悪かろうが、こうしてちゃんと呼吸をするし、消化をしたり、何かを思ったり、行動したりすることができます。我々の普段の日常は全てそうしたものに支えられて成り立っているのであり、この仏法でまかり通っているということです。あるいは「仏法として」になっているということです。
大きな力に支えられ、あるいは仏法に支えられこの世界は成り立っており、我々も生きることができるということ、またそのものとして「ある」ということ。ここは仏の仏、仏としての命、たった1つのこと、全てこちら側だということ、我々は何もかも全く同じだということです。
とても大きな意味をもった歌でした。このような人物と同じ門下生でいることを誇りに思います。
確かに地球がなくなれば「うぐいす」もいなくなってしまうことでしょう。「梅の梢」もありません。それでも風が吹くのはかわりません。火が熱いのもかわりません。仏があるということには変わらないのです。あるいは「ないにはない」ということです。畢竟、仏が消滅してしまえば「消滅している」ということです。真実がそこにはあります。
何も変わりません。そこにはちゃんと「ある」のです。たった1つのことだけなのです。大いなる力、それがちゃんとあるのです。全てを支えている「何か」がいるのです。全ては「支えられている」のです。その約束だけがここにはあるのです。私自身という現象がそうなのです。そこに「ある」もの。何も変わらないもの、永遠普遍なるもの、それが仏法です。
戦争をして争うということ。そうしたことは本当に愚かなことで、全くの不要物です。時に悟ったり、悟ろうとしたり、仏教を学んだり、その仏教に関して議論を交わしたりするということも不要なことなのかもしれません。
ここではこのようにして世界を見たり、このようにしてこの人生を生きることが、我々の本当の生き方なのではないでしょうか。我々は大きなものに支えられている。この世界もこの私も常に支えられている存在だということ。大きな味方がいるということ。何があっても救われているということ。何も心配がいらないということ。あるいはその大きなものとして、たった1つのものとして自分自身が生きているということ。
その時にやっと豊かさも平和ももたらされるのではないかと思います。これを正真正銘の仏道と言うのではないかと思うのです。
人間はこの生き方ができればいいのです。これさえできればいいのです。これは真実の生き方です、正しい生き方、正解の生き方、人の生き方、時に真実の真実、勇者の行いです。このことが多くの人に広まれば、世界はきっともっと良くなるはずです。我々はこの歌を世界に広げていくだけです。
大きいことはわからない、細かいことは気にしない
これは昔大学生の時に、偶然入った居酒屋のお手洗いに掲げられていた言葉です。感銘は受けつつも、どことなくピースが欠けているような思いをしておりました。今回それをようやく埋めることができた次第です。


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