↑こちらの記事にもある通り、この世界は「全体」です。今こうしている間にも、鳥の鳴き声が耳を震わせ、実際に肌で温かくもあり、寒くもある、春の陽気を感じております。それは全体(宇宙環境)によって感じさせられ、全体(宇宙環境)によって起こされたことなのです。「全体」というのが我々の正体なのです。
道元禅師は「正法眼蔵生死の巻」において「この生死はすなわち仏の御命なり」と述べられております。
この世界のすべては「全体(仏)」なのです。ただそれだけです。それのみです。
ただただ全体だから、ここでは個人で何かを言うことができません。何もいうことができません。何もありません。そもそもそのようなことをする「個人(主人)」がここにはないからです。
お米はタネがあって、水があって、土があって、太陽があって、あのような姿になります。私というこの物体も同じです。細胞があり、内臓があり、酸素があってこのような姿になるのです。
あるいは否応なしに季節の気候に影響を受けるし、常にその「環境」として生きている。そこでは問答無用で他によって思わされ、さらにそれによって行動を起こさせられている。常に私とは「全て」なのです。「物事の全て」は「物事の全て」なのです。どうしたって2つに分けることができないのです。
ここには「個」がないのです。ここで存在しているものは全て繋がっている、繋がってしまう。同じ命なのです。全てが同じ仏、仏という同じ生き物なのです。それで全体ということなのです。この世界ということなのです。
今、宗門ではいろいろなことをする人がおります。葬儀でギターを弾く人、檀家制度をやめる人、禅のテーマパークなるものを作ろうとする人。
またこうしたことに対し、我々はさまざまな考え方もしてしまいます。人によっては邪道だと、間違った道だと思う人もいるかもしれません。
しかし繰り返しになりましすがこの世界は「全体」です。そうした邪道すらも、ここでは含まれていくこと、認められていくこと。生きていること。草や木、コンクリート、ポニー、炊き込みご飯、どんなものでも含められてしまうこと、認められてしまうこと、存在できてしまうこと。
それが本当の全体です。本当の世界です。本当の慈悲です。何があっても覆らない大自然の本当の有り様です。
そしてその「本当のこと」を説くのが仏教です。邪道があっていい、そうした邪道が存在できていることは全体の証拠です。大自然の証拠です。正しい証拠です。本当の仏教である証拠です。
邪道こそが仏教なのです。邪道こそがこの世界なのです。邪道を生かすこと、邪道があることが本物なのです。真実なのです。この世界なのです。
混ぜ込みチャーハン、パイナップル入りの酢豚、カップラーメン。邪道だとしても美味しいです。またこうしたものも私を明日へ運んでくれる、れっきとした「仏飯」なのです。
何よりそこでは「あいつは邪道だ」と思わされた自分が「ある」わけです。結果があるわけです。仮に聖なる自分だったとしても、その聖なる自分をそのようにさせたのが邪道なのです。邪道が聖を生かしたのです。
「僧堂」は大衆によって賄われております。元々その「大衆」とは、「清浄大海衆」という言葉です。しきりに「大衆一如」という言葉が使われますが、まさに海のように、そこにはいろいろな者が流れ着いてきます。そのような者も分け隔てなく受け入れております。そして維持されていくわけです。
我々の実際の生活もそうですよね。こうしている間にも、あるいは寝ている間にも呼吸をしているわけですが、汚い空気は嫌だ、新鮮な空気が良いなどと言ってられません。さまざまな空気が入り乱れて侵入してきます。そして生きているのです。食べたものに関しても、喉元を過ぎればどんなものでも分け隔てなく消化してくれます。
このようなことで我々は生きていかれるんです。好き嫌いなどしていれば生きていかれません。どんなものも受け入れる。どんなものも受け入れてしまう。その「事実」、その「繋がり」がないと生きていけないのです。人間だけでなく、他の動物も、他の物体もそうです。そこでは必ず通じ合ってしまう。あるいは「全体」があるから、生きていかれるわけです。
どこもかしこも全体なんです。ここは全体のみなのです。あらゆるものが一緒になって溶け合っているんです。あるいはあらゆるものが一緒になって溶け合わなければこの世界は成立しないんです。私も成り立たないんです。生きていかれないんです。
全体が真実なのです。命なのです。生死なのです。
私の生家であるお寺の「庫裡」はいつも汚いんですね。
冷蔵庫も汚い。腐ったものが保管されていたり、平気でそこら辺に落ちていたりする。猫がいて、その猫の食べかすや、糞尿がその辺に落ちていたり、あらゆる布に付いていたりする。夏になれば当然ゴキブリも出てきて、他にもいろいろな虫が出てきたりする。もうやりたい放題です。
そこではいろいろなものが共存して、誰もそれを咎めるものはいない。みんなが好きにしている。
しかしこれが本来の大自然なのだと、本来のあるべき姿なのだと。大自然の姿をまざまざと見せられているような気がするのです。
全てが存在できる。あらゆる存在が許されている。それがいいんですね。ありがたいんです。安心するんです。まさしく仏教の家です。もちろん隅々まで掃除の手が行き届いたピカピカした家もいいわけですが、こうしたお家もいいわけです。
何があっても全体です。汚い家だろうが、綺麗なマンションだろうが、そこで起こっていることは全く同じです。そこにあるものは全く同じです。それは「全体」、ここは「全体」なのです。
この世界は何があってもそうなのです。全てを受け入れているのです。あるいは受け入れてしまうのです。ただただ、全体なのです。
実は人の頭の中にしか「邪道(個別)」は存在しません。猫ちゃんは猫まんまが大好きです、あの汚らしい、ぐちゅぐちゅしたものが大好きです。文句を言わずむしゃくしゃとあっという間に食べてしまいます。
また今の社会としては、いろいろな国の人間や価値観が入り混じるカオスな社会になっていくことはあまり良いことではないのかもしれません。この日本がインドのような国になるのは、少し怖い気がします。移民受け入れに反対の思いがするのも当然です。
しかし本来の大自然のあり方としては何も間違っていない。止めることもできないことです。
あらゆるものが存在し、あらゆるものが生きている、そうした世界が本来であり、また全体であり、慈悲だからです。それは大自然の「様」なので、どうすることもできないのものなのです。



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