我々生きとしいける、生あるものは必ずいつか死んでしまいます。とても悲しいことですが、それは避けられないことです。言い方は少し悪いかもしれませんが、それは「当たり前のこと」です。
時に、春になれば花が咲き、夏になれば蝉が鳴きだします。これも避けることのできない、当たり前のこと。
我々の日常にあっても、元気であれば活動的になるし疲れていれば横になってしまう。時に寝ている間にも呼吸をし、食べたものを消化しております。こうしたことも「当たり前のこと」以外の何物でもありません。
我々は常にこうした「当たり前の中」に生きております。常にそれは防ぎ難いものです。何の取り柄もない、単なる「もの/こと」です。
しかしそれがあるから生きていける。そのようにも思うのです。
もしこうして春や夏、秋、冬がやってこなければ、あるいはもし我々が一生疲れない体だったり、死なない体だったりすれば、この世界はきっとめちゃくちゃになってしまうし、おそらく我々は生きていくことができないはずです。
この当たり前が我々を生かしてくれているわけです。何よりもこの当たり前が尊いわけです。この当たり前が我々の命そのものであり、同時に大自然のお力、仏様のお力だと思うのです。
こうして熱いものに触れれば、とっさに「熱さ」を感じ、手を引っ込めることができる。寝ている間にも呼吸をすることができる。こうしたことによって、我々は自分を守ることができ、明日も生きていくことが出来るのです。
そうした当たり前が常にここにはあります。常に全てを支配している。常に守られている。我々はこんなにも容易く、またこんなにも無条件で「生命活動」を維持することができるのです。
生きていると、悲しいことがたくさんあります。もちろん悲しいことは辛いです。できれば経験したくないことです。誰もがその「悲しむ心」を持っており、折に触れ、そういう機会に出会ってしまいます。例えば大切な人がお亡くなりになってしまうという辛さ、悲しみ。代表的な一例でしょう。
しかしそれも今述べた「当たり前という中の話」であって、ある意味ではお救いの中の話です。
その悲しみがあって、時に我々は人に優しくすることが出来る。寄り添うことができる。人間が人間としてあり続けることができる。
悲しみを感じないということは、楽しさも感じないということです。感情を持たないということです。
つまりそうした悲しみというのも、人が人として生きていくために必要なこと。人が人としてあるためには欠かせないこと。ひいては我々が生きていくためには欠かせないことなのです。
疲れること、悲しむこと、呼吸をすること、消化をすること、熱さを感じること、痛みを感じること。我々はこのようなものがなくては生きていくことができないわけですが、何もせずとも、何も努力をせずとも、我々は常にそうしたものを携えている。生きる上で、最大の武器を持ち合わせている。あるいはそれで真っ当に生きることができている、真っ当に生きることが許されているわけです。
そこでは「それ」が当たり前なこととして、常に存在しているのです。それが我々に常に寄り添ってくれているのです。何があってもこの「仏さま」が我々を見守り続けてくれるのです。
我々は何があっても、仏法の仏法による仏法尽くしなのです。
仮に我々が死んでしまっても、世界がなくなってもです。
現に死して、火葬にされて骨になっても、いずれは大地に戻っていきます。これも当たり前という力による出来事です。そしてまたこの世界に戻ってくる。亡くなってもその当たり前が、あるいは「仏さま」が見守り続けてくれているのです。
我々個人としては確かに死をもってそこで1つの節目を迎えるのかもしれません。しかし大きな大自然のお命として、また我々は生き続けるのではないでしょうか。その「当たり前のちから」によって、あるいは「仏さまの一部」として。
この「当たり前(仏法)」というのが我々のお命であり、たった1つのこの世界の出来事なのです。

何があってもそこには当たり前があります。仏さまが見守り続けてくれております。我々は生き続けるのです。世界もあり続けるのです。
だから大丈夫なのです。何があっても平常無事なのです。
地震がいきなり起きることもそう、うちわで仰げば風が吹くこともそう、火打石でカチッとやれば火が起こることもそう。また腹が減ること、白髪になること、足を組めば痛いこと、イラっとすること。何よりも私自身が「そのようなもの」なのです。
我々もそうですが、故人様も、この世界も、きっとこれからもそうした「1つの命」として生き続け、守られ続けていくのだと思います。
生きているものはこの当たり前に当たり前されていけばいい。当たり前をただ当たり前にしていけばいい。ただこの当たり前に感謝し、この当たり前の世界でただ当たり前をしていればいい。
あるいは「たった1つ」が「たった1つ」を「たった1つする」。
坐禅もこのためにあるものなのです。


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