【簡潔】仏法、もしくは坐禅について

人間生活というのはプライドや感情のぶつかり合いです。そこにいるのは人間同士。どうしても概念が先行してしまうのであって、残念ながらそれは免れることができません。地位や名誉、権力や価値観。そうした目に見えない、不確かなものによって、我々の人生は左右されてしまうのです。

しかし仮にそこで虐げられたからといって、年下にアゴで使われたからといって、プライドを傷つけられたからといって、打ち負かされたといって「仏法」が変わるわけではありません。大自然が変わるわけではありません。台風や地震がなくなるわけではありません。

あるいは拳骨をされると「痛い」という真実がなくなるわけではありません。そのように毎日怒られながら必死になりながら、やってきた経験がなくなるわけではありません。修行がなくなるわけではありません。またそこで身についた作法、視点そうしたものがなくなるわけではありません。

それは確かなものとして、あるいは「修行歴」として、決して失われることがないのです。

仏法や大自然、修行というのは決してなくならないものです。普遍的なものです。そうした人間の物差しとは関係がない。絶対的なものです。人間の不確かなプライドや、感情とは違い、それは必ずあるものです。目に見えるものです。手にさわれるものです。

この世界の確かなもの。この世界のたった1つのことです。

よって人間の柱となるものです。人間の支えとなるものです。それが本当の意味で人間を守ってくれるものなのです。

仏法や修行というのは、このような意義を持つものなのです。あるいは消えないもの、どこにもいかないもの、確かなもの。

修行というのはだから行うものなのです。仏法はだから「修するもの」なのです。繰り返しになりますが、それがこの世界の「たった1つのこと」だからです。

「坐禅」がまさにそうです。これは徹底した仏道修行のことですが、自我で行うものではありません。人間としてのものではありません。大自然のこと、この世界の確かなこと、全体の全体のこと、この世界のたった1つのことなのです。

だから組むわけです。だからそこでは姿勢をただすわけです。「なぜやる?なぜ姿勢をただす?」という疑問は必要ないのです。そのような疑問は介入さえもできないものなのです。

そのようなことではいけません。それはまだ自我の延長としてこの坐禅をとらえているのです。そうなると大自然のことではないし、この世界のたった1つのことではないのです。それは坐禅ではないのです。

しかし仮になぜ坐禅を行うか、という疑問を持ったままで、あるいは悟るためだと息巻いて行ったとしても、ただただ足を組む。ただただ姿勢を正す。形としてはそれを行うから行うだけ。行われるから行われるだけです。

何があっても「坐禅」はただただ「たった1つの世界のこと」なのです。あるいは何があっても「たった1つのこと」は「たった1つのこと」なのです。何があっても「真実」は「真実」なのです。

過程はどんなでも我々はただ足を組めばいいのです。私が足を組む。それがこの世界にたった1つしかないことだからです。あるいは真実だからです。

我々はこの世界にたった1つしかないことと、ただ共にあればいいだけなのです。あるいは真実が真実を真実している、そのような世界がありさえすればいいのです。無論、何があってもそうなっているのです。だから何があっても大丈夫なのです。

生きていくことは大変です。人間社会というのもよくわかりません。でもそんなこともそうした気づき一つで、少し違った見え方ができてくるはずです。

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