仏法とは人の生きる道/大人にこそ仏教を/大人の人権学習/たった1つのこと

ここは「全体の全体」です。あるいは「たった1つのこと」です。真実がそうなのです。

なので結局はその「真実どうするか」ということだと思うのです。つまり「全体の全体」としてどうするか、たった一つのこととしてどうするか。つまりここでは「仏様として」が正しいことだと思うのです。

例えば小学生の頃には人権学習として、人の人権についてと、あるいは一人一人の人権の尊重などがよく取り沙汰されます。時にビデオ学習や、講師を招いての学習を通し、我々は大切な存在なのだと。自分も他人も大切にするべきなのだと。人には優しくしようと。こうしたことを大切なこととして、率先して教えていくわけです。

もちろんそれは何も間違っておりません。とても大切なことで、なくてはならないカリキュラムです。人を助けたり、人に優しくすることに理屈はないからです。本能だからです。それに子供心というのは純粋無垢ですから、そういった話を聞いてもらいやすいのでしょう。浸透しやすいのです。

しかし大人になってからというもの、他人を蹴落としてでも自分を押し通さなければいけない場面に遭遇し、そうした人権や、他人への配慮というものができなくなる時が必ずあります。いじめや、嫌いな上司とのせめぎ合い、こうした経験は誰しもにあって「そんな人権など糞食らえ!」と思う時が必ずあります。

そうなった時に、我々は迷ってしまうのです。むしろかつての人権学習というものが邪魔さえしてくるのです。

人権はもちろん大切です。これは理屈抜きに、なくてはならない学びであり、考え方です。しかしそれだけを見ていては人は迷います。悩みます。それだけに固執した場合、いき詰まってしまう時が必ずあります。

そしてそれが往々にして現在の社会問題なのです。ほとんどのカリキュラムは、臭いものに蓋をしているだけに過ぎないということ。助けとなる学がないこと。今も出会えていないこと。

我々には本当の助けが必要なのではないでしょうか。そのようなものが本当の学びであり、本当の人権学習、我々の必修科目なのだと思うのです。

それが冒頭でも述べた「大元」のことです。この世界の成り立ちのことです。真実のことです。

ここは全体の全体です。人間やお米、あらゆるものが全体の全体です。また自分の思いも行いもをひっくるめてすべて全体の全体です。それだけが存在しているものです。その「全体の全体」だけしかありません。それがたった1つのことなのです。良い意味でこの世界はどうすることもできないということに気づくのです。安心していていいということだからです。

大切なのは真実のはずです。その真実しかこの世にはないからです。よって我々にとってそうした教えが、真実の教えが必要です。仏教が必要なのです。仏教の学びが必要なのです。

それでも今こうしている間にも、仮に一生気づくことができなくても、事実として我々は全体の全体。真実そのもの、全体の全体なのであって、そういったこともそこには含まれるのです。

我々はもっと日々、おおらかに生きることができるはずなのです。自分も他人も許すことができるはずなのです。

人権学習はもとより、数学、国語、化学、社会。あらゆる科目を我々は勉強していきます。しかしそのようなものが社会で役に立った試しがありません。荒唐無稽でしかないのです。

今本当の意味で、救われなければいけないのは大人たちです。助けとなる学がないこと。今も出会えていない大人にこそ、本当の意味での学習が必要で、真実学習なるものが必要なのです。

本当に大切な学び、本当に大切な学習、ひいては人権学習。それを見直さなければいけない気がします。本当の人権学習をしていかなければいけない気がします。

救われなければいけない人間は多いです。人間というのは常に救われたい。あるいはそれが人間の生き方だということです。仏教とはそのためにあるものです。つまり仏教とは人の生き方なのです。本来「学び」でもないということです。とても意義深いものです。

改めてお寺の重要性にも気付かされた次第です。

仏教とは「全体の全体を全体する」ことです。こうした記事を書き、あなたの人生にお邪魔することも、仏教の宣伝をすることも、この「全体の全体を全体」しているわけです。

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