我々には「今、この瞬間」だけが存在しております。これは意を介す必要のないことで、紛れもない事実でしょう。
つまりそれは「全てには今しかない。すべてのことはいま、ここのことだ」という意味です。例えば電車に乗っていること、コーヒーを飲んでいること。ベランダに立ち、鳥の鳴き声を聞いていること。そのようなことです。私であれば坐禅をしております。
頭が悪かろうが、地位が低かろうが、貧乏だろうが、いずれにせよ我々にはその今だけが存在しており、その今だけしかないのです。
また例えば過去も未来という尺度も、あらゆる思想も、大層な理念も、そのようなものも今ここによって起こされることであり、そのようなものも実はいまここのことだということです。結局はこの今が全ての大元であり、すべての原点です。
すべては「この今のこと」なのです。
例えば仏法も、仏も、あるいは真実も、どこか遠くにあるものではなく、また一人歩きしてどこか離れてしまうものでもなく「いま、ここのこと」なのです。いま、ここ「そのもの」なのです。このいまの状況、あるいはこの坐禅、そこにしかそのようなものはないのです。あるいはこのいま、この坐禅しかこの世界に存在物と呼べるものがないのです。
例えば悟りや仏法というものは往々にしてどこか別の場所にあるものだ、なんとかしてそれを手にせんがならないもの、修行も坐禅もそのためにあるものだと思われているわけですが、そのようにどこかに棚上げをし、自分と切り離す、あるいは今ここから切り離す必要がないわけです。
そもそもそんな行為が本来できないわけです。
この今にこそ全てがあるのです。この今にしか何もないのです。この坐禅中に全てがあるのです。
だから只管打坐だというわけです。足を組み続けろということです。常に今(全て=仏)を逃がすな、今(全て=仏)と共にあれというのです。あるいは生きている以上は常に生き続けろということです。
坐禅が我々はもとより、仏のお命、あるいは仏行だと言われる所以がここにあります。そこは全てがある場所、全てが生きる場所、我々にとっての唯一の感知、あるいは話題性、場所としての場所だからです。
繰り返しになりますが、我々には坐禅(いま、ここ)だけが存在しております。少し乱暴な言い方をすればこの世界のたった1つのことです。我々が生きていくということなのです。
たった1つのことはたった1つのことなのです。それ以外ないということです。あるいはその名の通り「すべて」なのです。それだけが我々の命なのです。あらゆる目的も、意味も、本質もそこにあり、そここそが我々が生きている場所なのです。
真実も、たった1つのことも、全体の全体ということも、大層な理念も、悟りも、ありのままも、あるがままも、その今に、あるいはこの足を組むことだけに集約されているのです。
坐禅が「安楽の法門」だと言われる理由もそこです。我々はこの坐禅に全てを委ねることができるのです。この坐禅に全てを任せることができるのです。これ以上の安心はありません。
只管打坐、および坐禅は、自分が自分でありつづけること、あるいは世界が世界としてありつづけること、真実が真実としてあり続けることです。
一生坐禅をしていればいいのです。あるいはどんな時もいまを楽しみ、いまを苦しみ、いまを精一杯生きる。死ぬその時までただ生き続ければいいだけなのです。
しかしこのようなことを申し上げてきましたけれども、我々にはそれしか術はありません。常に今、ここです。何があってもそういう風にしかならないのです。坐禅以外のことがない。またそこでは仏性以外のことがない。全体の全体以外のことがない。
我々の命(人生)を「只管打坐」と言います。


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