神だろうが、仏だろうが、神を信じるものであろうが、仏を信じるものであろうが、あるいは無宗教者であろうが、なにであろうが、何者であろうが、誰しもが、腹が減り排泄をし、呼吸をします。
人間だけでなく、犬でも猫でも、鳥でも虫であってもそうです。
これこそ本当の「宗教」です。それはこの世界に唯一存在するものだからです。確かなものだからです。また世界の真実、約束事だからです。
このようなものを「仏道」といいます。もちろん「神道」といってもいいです。それは真実、真実の教えです。我々が生きる自体のことです。生きること自体の教えです。
呼び方はなんにせよ、本当の宗教というのはこうした確かな物でなければなりません。「今、ここ」のことでなければなりません。本当のこと、真実なるもの、絶対的なもの、あるいはこの世界に実際になくてはならないものでなければなりません。
思想の違い、言葉の違い、国の違い、あるいは目に見えないもの、あるいは手で触ることができないものというのは、やはり存在していないし、他方そのようなものは違いを生み出す原因、争いの原因にもなります。
翻って「仏道」は、これはこの世界の唯一の存在物です。真実です。大元です。平等の物です。腹が減ること、足を組めば痛いこと。たった1つのこと、宗教でもあり、時の事実、「それ」がないと生きていくことができないもの。これこそ人々の心の拠り所、本当の宗教、我々の生きる道です。我々にとって必要不可欠なもの、あるいは生きる事実、それが「仏道」です。
宗教としてもそうですし、心の安らぎとしてもそうですが、我々にはこんなにも有難い、共通理解があるのです。共通言語、和平のタイミングがあるのです。
中には「そしたらそのようなものは単なる科学だ」と思われる人もいるかもしれません。またとても単純なことで、小学生ですら知っていることだと思われる人もいるかもしれません。工夫の余地がない、人を包み込むおおらかさも、面白みも旨味も何もない、人々の心の拠り所になるものとは、宗教などとは、とても呼べたものじゃないと思われるかもしれません。
しかしそれで大いに結構なのです。真実には「面白み」は全くありません。突然地震が起きるように、またそれを防ぐことができないように、人間の工夫など、人間の概念などがそもそも通用しないものだからです。またそこでは子供達にも共通し、その子供でも知ることができること、子供でも理解できるということが大切なことだからです。
「真実」だけが大切なことで、何を隠そう、そのように「何かをつまらなそうに思う」という行為自体が、「仏道」であり「真実」のことだからです。
仏道というのは常に絶対です。また常に必ずあるもの。常に必ずそこにあるもの。常に共にあるもの。よって真実。足し増しなし。生きる事実、生きている事実、生きた事実、「たった1つのこと」なのです。時に人間の概念とは正反対的なものと言えるかもしれません。
それになぜこうして腹が減るのか、うちわで仰げば風が起こるのか、火打石でカチッとやれば火花が飛ぶのか、そして火がつくのか、温度が上がると燃え上がるのか、春になれば花が咲き、夏になれば蝉がなくのかは誰も知りません。また今後の技術を持ってしても解き明かされることでもありません。ロマンに溢れております。
仏道は、あるいは真実というのは常に平穏無事。「何か」に邪魔されることは決してありません。それはただただ完璧なこと。ただただ生きている事実。そのようなものだからこそ、本当の宗教なのです。そしてそのようなものが常にそこにはあるということ、常に我々を見守ってくれているということ。私自身がその「仏道」、そのものだということです。
宗教というのは誰にとっても、漏れることのないものです。共通するものです。生きた事実、人生そのものなのです。
もちろんせっかくこうして生まれてきた以上、そこではそれぞれ好きなことを思っていい。生きている限り、そこでは何を信じてもいいわけですが、要所は抑えておかなければなりません。
大元があるということ。ここには仏道のみが「ある」ということ。「仏道」が全てであるということは忘れてはいけません。「今、ここ」しかないということ。結局は我々には「それ」以外のことがないということ。仏道しかないということ。結局はそれに従うしかないということ。結局はそれに従っているということ。
「腹が減ること、排泄をすること、呼吸をすること、何かを思うこと、寝ている間にも呼吸していること、消化していること。」これが我々の本当の姿で、この世界におけるたった1つのことです。大自然の大自然。あるいは「仏道」というたった1つのこと。それ以外のことがないのです。あるいは「今、ここ」のこと。宗教にしても「このこと」以外ないのです。
足を組むことは、仏道であり、本当の宗教であり、我々の生きる道でもあります。


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