中途半端な人生でも、サラリーマンでも全てが「仏道」/坐禅は坐禅。

私はこれまで数多くの経験をしてきました。大学を卒業してからは仏道修行をする機会があれば、時にサラリーマンとして生活することがあったり、また30歳過ぎてからもバイトをして食い繋ぐことがあったりと、紆余曲折的に、本当にさまざまな経験をしながら生きてまいりました。何の変哲もない、むしろ叱責されるような、本当に中途半端な人生です。

他方、人間には居住できる場所が必要ですが、私がかつて住んでいた居住場所もそうですし、今住んでいる場所もそう。その時、たまたま空き家となっていたから住むことのできた場所です。住居はとても大切です。それは人間の生命活動を一番に支えるものです。そうした幸運には恵まれていたわけです。

そしてその土地ならではの雰囲気に抱かれ、またその分の心が養われ、時にさまざまな人と交わり、そこでさまざまな気づき、情熱、悲しみ、幸福、感動、そうした精神ムーブを与えられながら生きてきました。そこには他にはない自然環境というものがあり、それが私を育ててくれました。今でも鳴かず飛ばずの人生ですが、実際に生きることができ、今も生きることができております。

そこに何か1つでも欠けていれば、今のような状況にはなっていなかったはずですし、違った人物にもなっていたはずです。もしかしたら途中で死ぬこともあったかもしれません。そう思うと、どれも今の私にあっては欠かすことのできない「命の糧」だったわけです。

もちろんそれはただ「運よく生きてこれたから、生きてこれた」わけで、ただそうなった「事実」があるだけです。これからもそれがあるだけです。

しかしだとすると、実は人生には「違い」などないということに気づくのです。

誰においても「その事実」が常に我々と共にあるということ、常にそこには事実が満ちているということです。そしてその事実とは生きていることの過程です。あるいは生きてきた結果です。過程と結果、何事もそれが全てになるわけですが、誰しもが必ずそうした同じ状況に置かれているからです。中途半端な人であっても、完全無欠のスーパースターであっても、実際の中身は同じということなのです。

つまりそれは常に我々は生きることができるということを示唆しており、それは常に我々が「全て」であるということを示唆しており、それは常に我々には「ある」ということを示唆しております。またそれは常に我々は皆平等だということを示唆し、それは常に我々は同じ真実だということを示唆し、それは常に我々は絶対に安心だということを示唆しているのです。

今もそうです。A地点とB地点、あるいはAさんとBさんにおいても同じで、そこにはそうした「決まりごと」しかありません。例えば隣人がうるさいこと、楽しい思いをしていられること、一方で病にふしていること、不安に苛まれていること。そこには同じ決まりごとがあり、その同じ決まりごとと共に生きております。

これが人を生かしており、我々にとっての「生」となっているのです。我々というのはこの「事実」のことです。ここではその事実が人を生かしているのです。あるいはその事実が生きているとも言えるのです。

私というものはそうした「世界」のことなのです。私は事実です、私は世界なのです。その事実はたった1つです。完全無欠です。嘘をつきません。どこにもいきません。それはこの世界の「この世界」なのです。同じように「我々」もそうだということです。

事実に任せておけばいい、事実に生かされていけばいいのです。

ここでは私ではなく、「それ」が生きているのです。同じように「我々」は常に全てのことを、あるいは「たった1つ(仏)」のこととして生きております。

そして何があってもそのおかげで、我々は生きていくことができます。我々が我々であることができます。時に仏が仏であることができます。ここでは仏は何があっても仏であり、私はその仏なのです。

私は本当に中途半端な人間です。なんの取り柄もない人間です。失敗や恥ずかしい思いもたくさんしてきました。しかしそこにおいても今述べたようなことが行われているのです。そこにあったものは同じものだったのです。今も、これからもそうです。我々は「たった1つのこと」なのです。悩んでいる自分も、迷っている自分も、世界で活躍している自分も、そうでない自分も、なんでもいいのです。

何が起ころうが、仮に明日死のうが私には「それ」以外のことがありません。真実以外のことがない、たった1つ以外のことがありません。仏道以外のことがありません。全てこちら側、同じ場所なのです。ここは一本の道です。仏の道です。我々は何があってもその道を外れることがありません。

そして仏を生かしている、私を生かしているのだから、形はいずれでもそれは「仏道」です。どんなものでも、どんな形でも我々が生きていく過程、それは仏道です。そしてそれは事実のことです。事実が「仏道」なのです。

我々はそんな事実と常に共にあります。どんな人生でもそれは仏道なのです。

おそらく私は「会社員」をずっと続けながら生きることはできなかったと思います。またそこでは仏道修行という経験が必要でしたし、時にバイトという経験も必要でした。またバイトでレジ打ちを教えてくれた田中くんが必要でした。遅くまでバイトをした日は、お腹が空き過ぎるあまり、牛丼を食べました。禁忌とされるお肉も、豚肉もたくさん食べてしまいました。同じようにお付き合いでお酒を飲むこともしばしばありました。それが事実だったのです。そのようにして生きてこれたのです。そして今があるのです。

時に修行や、仏道というのは本来そういう風に捉えられるべきものだと思うわけです。我々を生かすもの、私が生きてきた事実のこと、我々が生きるために必要なこと、人にとって欠かせないこと、畢竟、その人が生きてきた事実のこと。それが「修行」です。修行とは「この私における事実」のことです。あるいは「我々が生きている過程のこと」です。修行は「我々が生きている過程のこと」です。それがないと生きられないもののことです。我々を生かしてくれるもののことです。あるいは事実のことです。真実のことです。

これまで本当に色々なことをし、時によそ見をし、道を外れることもありました。一方でそうした道を歩むことによって私は確かに命を繋いできたのです。そこでは確かに「それ」が私が生きる上で必要だったものなのです。そうしなければ生きてこれなかったのです。

私にとっては修行も仏教の勉強もサラリーマンの生活もそこでは全て同等です。全てが欠かせないものです。尊い出来事です。つまり「仏道」です。

人によって育てなければいけない子供がいて、家庭もあって、仏道修行などはしてはいられない。仏教のことなど考えていられない。お金が必要で、夢中で働かざるを得なかったという人は多いはずです。今もそうだという人もいるはずです。

それでも事実として生きることができた。生きることができる。それがあなたの「仏道」です。修行です。それでいいわけです。

また中には会社員という形でしか生きられない者もいるでしょう。私のように中途半端な生き方をしてしまう人もいるでしょう。また会社が倒産してしまえば乞食しながら生きながらえることもあることでしょう。時に人を傷つけたり、傷つけられたり、災害に見舞われたり、大恥をかいたりもするはずです。

それでもいい。我々は生きることができます。生きていること、それが修行です、仏道です。

もちろん仏教を熱心に信仰し、禅寺の格式めいた僧堂で修行を行うことができる人もいます。正真正銘の仏道を歩むことで、生きることができる人もいます。同じです。

そこには必ず事実があります。それが仏です。そういった場所に我々は常に身を置いているのです。中途半端な人生、かっこいい人生、カッコ悪い人生、煌びやかな人生、貧しい人生。いずれも必ずこちら側なのです。常にここは事実がある世界です。仏様に見守られている人生です。常にそれ以外ないというあり方をしている人生です。

形なく、常にそこにあるもの、常に人を生かしているもの、事実を恵んでくれるもの、これからも人を生かすもの、それが仏であり、仏道であり、仏法です。

生きていれば正解です。そこには必ず仏法があります。時に死んでしまったとしても正解です。そこにも必ず仏法があります。必ず仏様が見守ってくれているのです。常にたった1つのことなのです。

我々が常に歩んでいるのは仏道という大道です。仮にどんな道を歩むことになっても、そこは全てであり、たった1つのことであり、「仏道」です。我々が今歩んでいる道、これまで歩んできた道、これから歩んでいく道、それは全て「仏道」です。

だから我々は安心してそこにいていいのです。時にそのための坐禅だったりもします。

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