「あんぱん」を食べなさい。

「仏法」とは要するに「いま、ここの、このこと」です。

なぜなら、何があっても、どんなことが起こっても「いま、ここ」だけが、全てだからです。「いま、ここ」だけが、事実だからです。「いま、ここ」だけが、たった1つのことだからです。

したがってそれは全人類にとって密接なもの。必須なものです。あるいはこの世界の「真実」といってもいいかもしれません。

よく「仏教」というのは宗教の中の「1つ」に数えられます。しかしそうではない。そのようなものではない。これは宗教でなければ、教学でも、哲学でも、思想でもない、拝むものでもなければ、ありがたがるものでもない。

ただただ事実のことです。我々の生活そのもの、この「命」のことです。それは人が生きる上で絶対的なものです。唯一のものです。この世界のルールです。人だけでなく、猫にも犬にも通じるものです。

だからこそ説得力をもち、こうして長い間慕われ続けてきた。受け入れられてきた。また誰に至っても受け入れられるもの、受け入れなければいけないもの。無視できないものとなるのです。

従って、仏法が世界を統一するのです。あるいは統一ができるのです。仏教でなければ統一はできません。実はその配下に人間や、社会、その他の宗教の存在があるからです。あるいは元よりここは統一されていて、我々はそれに気づけていないだけで、そのことに気づかせてくれるのが仏法だからです。

例えばその仏法の中ではよく「物事はすべて1つ(自他一如/他は是我にあらず/全体の全体)」ということが仕切りに説かれます。これが我々にとって共通のもので、ここでいう「絶対的なもの」、あるいは「事実」を示唆しているからです。あるいはこの世界の「仕組み」を示唆しているからです。

事実、ここでは鳥の鳴き声が自分の耳を震わせるだけでなく、真冬になればその寒さに思わずブルっと震えるし、その中でバケツに手を突っ込もうものなら冷たさを通り越して、痛さに変わります。あるいは私がこうして生きていられるのは「呼吸」ができるからであるわけだけれども、その呼吸は「自分」が寝ている間にも行われ、もとよりその酸素は市外か、県外か、はたまた国外からやってきたものでもあるわけです。

私という命の垣根がどこにもないわけですね。「自分」というものの個別的存在をどうやっても見つけることができないのです。

また今であれば暖かくもあり、涼しくもある微妙な陽気を直接肌で、寸分なく感じられるのは、万法である仏法と私とが「同時」だからです。宇宙がそのまま私で、私がそのまま宇宙なのです。

あるいは我々がよく口にする「お米」がありますが、種があって、土があって、堆肥があって、太陽があって、水があって、虫たちの働きがあって、あのような姿になります。はたまたそれが私の口に運ばれてくるためにはお茶碗や、お箸、炊飯器、スーパーの店員さん、その駐車場、車、燃料、そういったものまで必要になるわけです。

お米は土であって、太陽でもあって、虫でもあり、車の駐車場でもあるというわけです。「私」という存在もすなわち、そういうことなのです。

本当にここは「全体の全体」、「自他一如」なのです。この世界の全ては「全体」なのです。「繋がり」なのです。「全体の全体」なのです。

そのようなことがあるから、ここでは鳥の鳴き声が耳を震わせるし、誰かを突き飛ばしたくなるような怒り、机を叩くという行為、時に破廉恥な思いというものを持ってしまう、あらゆる「事実」が起きてくるわけです。全体の全体で、ここでは繋がりのみだから、それは生まれるのです。

そしてお腹が空いたとしても誰かがその自分を満たしてくれることがなく、私は私を生きるしかない。よって「それ」は確実に存在していることがわかるわけです。つまり今こうして間違いなく「事実」があるということ、「それ」があること、「それ」は証明されているということもわかるわけです。

このようなものが仏法なのです。避け難いもの、事実というものが、あるいはこの世のルールというものが仏法なのです。仏法以外のことがここにはない。仏性以外のことがここにはない。たった1つのこと。常にそれは共にあるもの。私自身のこと。「今、ここ」のこと。仏法が我々の「命」なのです。

常にそこにいるのが我々の生活です。常にそんなことが行われているのが我々の生活です。それ以外のことがないのが我々の生活です。それは何があっても絶対だということです。安心していいのだということです。

我々は常に安心し切っているのだと。人間は常に救われているのだと。仏法はこのことを伝えるものなのです。宗教や哲学、思想、そうしたものを超えたものです。仏法とは「事実」のことなのです。その事実が救いなのです。それを伝えるものなのです。

それは必ずや、日頃の生活や、社会でも大きな助けとなってくれるはずです。男と女、貧困や富裕。こうしたあらゆる魔材や差別を退けることができ、ただただ安心して生きることができるようになるはずです。

例えばそれまでは誰かを殺したくなるほどの衝動が芽生えていたものも、それは「たった1つのこと」だったということ。それは他によってもたらされたもの、すなわちどうすることもできないもの、大自然の有り様、全体の全体だったのだ、ということが理解できるようになり、その感情の仕組みがわかるようになり、その感情を許せるようになり、そこではそれに任せる、全体に任せる、本来にすることができる、真実にすることができる、おおらかにすることができる、簡単に手放すことができるようになるのです。

またそこで何かを思うだけでなく、それに釣られて行動をしてしまうのもそうです。その延長です。それらは全て全体によるものです。

いきなり大地震に見舞われるのも、年をとり白髪が増えていくこともそう。

全てが「全体の全体」なのです。全体の命、仏の命、この世界の真実。それがこの世界のたった1つのことです。この世界にはそのたった1つのことしかないのです。

全てがそれなのです。この世界それ以外のことがないのです。ここが「全てが全て」だから、繋がっているから、「全体の全体」だから、それは行なわれることなのです。行われてしまうことなのです。それは「生まれる」のです。

我々はそれらに対しどうすることもできません。ただそれに従うだけです。そして何があってもそうなってしまうわけで、常にその中にあってしまうということ。それ以外のことがないので、我々はただ安心していればいいというわけなのです。

繰り返しになりますが、それはこの世界が「たった1つのこと」だからです。我々もその「たった1つのこと」だからです。我々の一挙手一投足もその「たった1つのこと」だからです。世界もたった1つのことだからです。全てはたった1つのことだからです。

そしてそれがここでいう「全体の全体」のことです。それ以外のことがないのです。

すると、ある意味ではそれは「ここには何もない」ということでもあります。全体の全体以外のことがない。「たった1つのこと」以外のことがないからです。だから何もないのです。つまり我々は何も悩まなくていいということでもあるわけです。

この煩わしい現代社会において、これほどまでに心強いものはありません。いつの時代も仏教ほど我々にとって心強い存在はないのです。

また真実は何があっても真実です。ここでは何があっても春になれば花がさく。何があっても鳥が自分の耳を震わせる。何があっても足をくめば痛いわけです。何があってもそこには「事実」があるわけです。そこに「嘘」などどこにもないわけです。

私たちはいつ、いかなる時もただ任せていればいい。常にそこ(事実)があって、そしてそこ(事実)は「全体の全体」だからです。常に「たった1つのことだけ」だからです。何があってもそこでは「たった1つ」を生きているからです。たった1つとして、間違いのないものとして、真実としてあり続けているからです。これまでも、これからも常にその道を歩み続けているからです。

何があってもそれのわけです。何があってもそれ以上も以下もないわけです。安心してこの世界にいればいいわけです。

道元禅師は「我々の生死は仏のお命である」と言われました。

私は今、ここで、自分の意思で「足を組めば」いいだけなのです。なぜなら「それ」しか「それ」はないからです。それが我々が生きるということ、「全体の全体」ということだからです。この記事で述べてきた「たった1つのこと」ということだからです。

また雲門様はとある修行僧に「本当の仏法とはなんですか?」と聞かれた際に、「あんぱんをおあがり」と言いました。同じように「真実」しか「真実」はないからです。

「たった1つのこと」それが世界です。そしてそれこそが仏法です。我々は安心して生きていけばいいのです。

このような教えというべきか、生きる手段が、もっと重んじられるべきではないでしょうか。

このようなこと、あるいはこのようなことを伝える仏法こそが、社会に出るべきです。学校の教育で教えていくことも大切だと思います。これは宗教でも個人的思想でもありません。

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