言わずもがな、ここの世界にあるもの。話はそれが全てです。一般的な考察や、何かの正体について定義したり議論するときも、この世界で起きている、この世界にあるものについてを話しているわけです。
この世界にすでに起きていること、これから起きそうなこと、要するに「この世界のこと」が全ての話題の中心なのです。
中には「仏とは何か?」そのような議論もありますが、仮にその正体がなんだったとしても、今、ここ、この世界の事実がその話の正体だということです。
またこの世界では「全て」がつながっております。ここでは鳥の声が耳を震わせる。つまり鳥が自分の命なんです。鳥が自分なんです。
仏とは何か?仮にそれがそれがなんだろうと、それはこの世界の話で、またそれは今この世界に存在しているものとつながっている。
なので「仏とは何か?」となれば、この世界に存在しているものは全て仏であり、あるいは全てであるということです。仏だけでなく、それは全て。全ては全てというわけです。
繰り返しになりますがこの世界のこと以外、他に語られるべき世界はないからですね。全てはこの世界の話なのです。またそんな世界では全てが1つにつながっているからです。
なので、この世界の「結果」、実物、事実、が全てを、あるいは今回の「仏」に関してを表しているということです。
事実だけが全て、事実だけが仏、事実だけが尊いということですね。

この仏の正体に限らず、どんな物の正体においても今、ここ、この実物、結果、事実、それが全てだということですね。この実物や事実がすべてを含んでいる。またはあらゆる結果を表しているということです。
そして「今、ここ、この自分」というのがその実物、結果だということです。だから自己に親しむことは全てを手にするということ、全てが叶うということなのです。

この世界に何があろうと、その正体がどんなものであろうと、今、ここ、この自分、あるいは目の前の花などの実物がそれらを表しているということです。全てを包括しているということです。全てがこの事実や実物に通じているということです。
議論するのなら、この世界のこと、目の前の実物のこと、今、ここ、この自己だけを見ればいい。
実際に私自身、肌をつねると痛い。あるいは足を組んでみると確かに痛くなります。私は確実にこの世界に生きています。この世界の住人です。
ということは私は実物であり、私こそが全てなのです。
この自己、あるいは実物こそ、事実こそ、全ての結果です。仏もなんでも、全てそこに含まれます。
なので足を組むことがこの世界の全てを包括している。全ての結果だということです。全ての命を包括しているということです。
だから足を組むと、仏なのです。足を組むと成仏なのです。足を組むことが世界を救うのです。
結果こそ、実物こそが全てです。その名の通り、この世界の全てを包括しているのです。
この世界のどこに仏がいるかは分かりません。実際にあるかも分かりません。
そんなものすら気にしなくてもいい。足を組むことでが全てなのです。
その痛みの事実がこの世界の全て。事実だけがあるいは仏だということです。そこには間違いなく全てが含まれるからです。あるいは仏の結果だからです。
「銀杏の木」も「犬のウンチ」も、「つまらない庭掃き掃除」も、それは存在であるならば、事実であるならば、自己ならば、それが全てです。この世界の結果です。あるいは仏の結果です。
何もわからなくていい。頭が悪くてもいい。この世界の全てがそこに含まれているのです。今、ここ、この自分の足の痛みに、足を組むことに、庭掃除をすることに全てが含まれているのです。
「これ」だけやっていればいいんです。坐禅だけしていればいい、掃き掃除だけしていればいいんですね。それが100の仏をいただいているからです。それが最も尊い瞬間だからです。
あるいは今、この私自身に関しても肌を何気なくつねってみる。そこに全てが含まれるわけです。この世界の正体が、全てが、尊さが。
かつて道元禅師が中国へ修行へいった際、高齢の老僧が暑い炎天下の中、椎茸をほしておりました。
道元禅師はその姿をみて、どうして若い者にやらせないのか?と尋ねるわけです。するとその老僧は「なぜ他人にやらせるのだ?」と述べるんですね。
今となれば、老僧がそのように言われる理由もわかりますよね。
前述の通り事実こそが全て、行動こそ、自己こそが全てだからです。それは全てに通じているからです。あるいは仏に通じているからです。仏そのものだからです。この世界の全てだからです。この世界の旨みだからです。
事実、実物、これら全てが仏の産物、仏の結果です。事実全てがこの世界の結果で、仏の結果です。
それを誰かにやらせること、それはとても勿体無いことだなと思うわけです。もしかしたらこの老僧もそのように思っていたのかもしれないと。
炎天下の椎茸干しも、つまらない庭掃き掃除も、つまらない日常も、それが仮にどんな形であれ、確実にこの世界の結果です。この世界の正体です。
紛れもない結果、真実です。それは全てなのです。
ここがわかるとどんな生活も楽しめそうな気がしますよね。どこにいようと、何をしていようと、楽しめるようになる。
そこで死に切ることができる。生き切ることができる。どんな事実も受け入れられるようになる。
書くことしかない人生も、仕事だらけの人生でも、歌うことしかできない人生でも、一瞬の命でも、あるいは死してもなお、そこには事実がある。この世界の正体がある。仏の事実がある。
つまり死してもなお仏としてつながっている。仏として生きている自分がいる。

些細な掃除も、細い作業も熱心にできるようになる。熱心にやらねばならない。それは仏の命を扱っているわけですから。仏の行いをしているわけですから。
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