残念ながら我々はいつか必ず死んでしまいます。
その「死」というのは、ある程度予測できることもあれば、突然やってくることでもあり、大自然のあり方であって、いずれにせよ抗うことはできません。大地震と同じように、我々は常にそうした大自然にさらされている、大自然「として」になっている、大自然そのものの命、大自然「そのもの」として生きているということです。
例えば我々は今こうしている間にも老化をしております。外気によって風化させられているわけです。誰しも抗うことはできません。大自然のお力で、大自然として生きているからです。
あるいは4月は暖かくもあり、時に涼しくもある微妙な時節ですが、そうした微妙な空気感さえも確実に感じとることができるのは、我々と大自然との間に境界線がないからです。
普段、我々は「呼吸」をしなければ生きていくことができませんが、その呼吸に必要な酸素というのは、市外や県外か、国外、どこからやってきたかわからないようなものを吸って行っているわけです。仮に「私の命」と、あるいは「ここからここまでが私の命」といった取り決めがあったとしたら、我々はすぐに窒息死してしまうはずです。しかしそうはなりません。
また我々は普段から「お米」を食べますが、あの「お米」というのはいきなりあのような形で現れるわけではありません。種があって、土があって、太陽があって、虫があって、様々な働きがあって、あのような形になるわけです。そのような存在がないと、あのようにはなれないのです。そこではお米は虫とも、太陽とも言えるはずです。
それは我々においても同じです。いくつもの細胞や臓器がそれぞれ働いており、血液や、骨、そのための栄養、食べ物、様々なものによって作られているのが我々なのです。
そしてそんな我々というのは常に何かを思い、何かを行動しているわけですが、何かを「思う」ということも、今こうして「カレーライス」というように、それは思わされているのであって、受動的なものであって、そこに基づいているのが実際の行動だということです。肝心の我々の一挙手一投足においても、そうした「自分以外の出来事」のわけです。
冒頭の話に戻ると、我々は誰しもがいつか必ず死んでしまうわけです。抗うことはできません。しかし死んでしまったとして、またお骨になったとして、その骨というのはどんなに長くても2,000年くらいのうちには溶けて、大自然に帰っていくといいます。死んでしまってからも、そのような働きをしている。つまり死んでからも我々は生きているのです。
大自然としての「大自然」。それが我々です。大自然として、あるいは大自然の働きとして、いつまでもあり続けている、それが我々の命だという風に思うわけです。
確かに、いつ地震があるかわからない、どんな目に会うかもわからない、突然酷い目に会うかもしれない、また死という悲しみからも逃れることができない、そういった面もあるけれども、しかし4月になればかならず春がきて、緑が芽吹きます。また8月になれば必ず夏がきて蝉がなき始めます。
どんなことがあってもそれは必ず訪れる、あるいはどんなことがあってもそこには大自然があるのです。この大自然というのは常に「平常無事」だということです。何があっても大丈夫なのです。そんな大自然と常に共にあるのが我々であり、またこれまでに亡くなられた故人様なのです。「大自然」が我々そのものなのです。
かつて奈良時代にいた行基様という僧侶が詠んだお歌にこのようなものがあります。
ほろほろと啼く山鳥の声聞けば父かとぞ思い母かとぞ思う。
故人様は今こうして我々と共にいらっしゃるはずです。あるいは「全て」が今こうしてここに共にあるはずです。
大自然。あるいは仏。時に決して分かつことのできない「繋がり」。ここにあるのはそれだけです。そのたった1つだけです。
仏教はこうした大自然の、あるいは真実の、あるいは「たった1つのこと」の教えです。それはまるで「仏さま」の手のひらの中の、それ以外のことがないという、究極安心のお話です。
時に、仏教そのもの、坐禅そのものがこの世界の「たった1つのこと」なのです。
「それ」は「それ」だからです。水は水だから、真実は真実だから、仏は仏だからです。確実的なこととしての「それ」が、「たった1つのこと」だからです。見方として手に掴めることの「それ」が、「たった1つのこと」だからです。
つまりそれは「今」のこと。確かな動き、確かなこと、足を組めば痛いこと、それがたった1つのことだからです。
ここはたった1つのことです。
仏教であり、坐禅なのです。


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