「坐禅」をして安心して死んでいけばいい/只管打坐

ここでは「坐禅を組むこと」だけが「あること」であり、時に真実であり、この世界のたった1つのことです。詰まるところ我々の一切は「今、ここ」に集約されるわけですが、この「坐禅」が本当の「今、ここ」だからです。

時に「諸行無常、諸法無我、涅槃寂静」この「三宝印」が仏教の奥義だと言われております。まさにその通りのわけで、例えば「諸法無我」においては、ここは全てが溶け合っており自我はなく、全てが同時としてあるわけなので、全てが「こちら側」であり「向こう側には何もない世界」、全てはたった1つのことという風なことを示唆するものですが、そのことが現実として、あるいは事実として形になったものがこの「坐禅」だということです。

あるいはこの坐禅は「生命の実物」としても真実だからです。それはこの世界における誰でも平等、利益なし、損得なし、経歴なしの「まっさらな出来事」とも言え、そういった意味でも「真実」だからです。

この坐禅以外のこと、つまり「今、ここ」以外のものは全てかりそめや、まやかし、向こう側、時に個人の思想、概念でしかありません。今、ここ以外、また今ここの坐禅以外のことがないのです。そうしたものはこの世界のことではありません。「全く何もない」というものなのです。本来言論することも、考える必要もないことなのです。

我々が本当に真実について触れたり、語れたりすること、何かを前に進めたり、そもそも「何かについてのこと」というのは、この「坐禅」にしか含まれないわけです。

時に仏法というのは深山幽谷の大自然のこと、またそこにいる鹿や、カエル、他の動物たちの心境こそがふさわしく、そうした人の手を介さない大自然の世界線の如くを我々は仏法の真実のように受け止められてきましたが、そうしたものも単なる人の思想であり、たった1つのこの世界を分けようとする行いであり、唯一のものである「今ここ」から離れた行為であり、本来できない行いです。よく語られる「輪廻」についてもそうです。

そうしたものは全て頭の中で起きていることで、人間の予想で、本来の物事ではないわけです。またそれは個人の主観であって、あの俳優がかっこいいとか、あの俳優が綺麗だとか、子供が行う幼稚なお話でしかありません。本来そこにはないものを掴もうとしている、何もないことをしている行為とも言えるのです。

我々には「今、ここ」を「本当とすること」以外、何もありません。それだけが我々の一切であり、生であり、死であり、時に使命であり、義務なのです。坐禅をすることだけが我々の唯一の存在なのです。だから只管打坐なのです。本当の大自然は「今、ここの坐禅」のことです。

そう思うと我々はいつも本当に無駄なことをしているわけです。論争は愚か、仏教論争などとはチャンチャラおかしな話なのです。あるいはこの世における、只管打坐を除く、これまでの人間の思想、人間の活動というのは全ておかしな話なのです。

繰り返しになりますが、私が今ここで足を組むことだけが確かなことであり、あらゆる存在物です。それだけがかかるものと、かかられるものです。また我々における瞬間としての瞬間であり、我々が唯一生きている瞬間であり、あるいはそのような立場に立っているもの、根本道理の立場に立っていること、真実の立場、何かを語れる立場に立っているということです。

坐禅が「事実」であり、また「全て」であり、「言葉」であり、「教え」なのです。

そうした時に、本当にそれがそれとして、本当にそれがあるということになり、あるいは真実が真実としてになり、ようやく全てが始まりだすということです。

何かを語るとすれば、そこでしか何かを語れることがありません。何かについて解き明かせることがない。仏法とは、真実とは、大自然とは、輪廻とは何かとは、この頭で語るものではない、足を組むこと自体なのです。

ここではあるものだけが「あるもの」なのです。それだけがあるものなのです。それしかないのです。今には今しかないのです。たった1つのことにはたった1つのことしかないのです。それしかありません。ここには今、ここしかありません。本当の今ここ、それだけを信じればいいのです。坐禅だけを信じていればいいのです。あるものだけを信じればいいのです。坐禅だけをすればいい、もはや言葉も入りません。教義もいりません。来世も、救いもいりません。

「坐禅」だけがこの世界にあるもの、つまりたった1つのことなのです。

仏法について本当に語る覚悟があるなら、こうした本当に厳しい態度が必要です。真実というのは生半可ではありません。仏教者も、本来の仏教というのも生半可なものではありません。

先日「仏教論争」という書籍を読みました。申し訳ありませんが、仏教について、あるいは仏教の講義、仏教学者、彼らは皆子供じみていて、何も理解していないとしか言えません。本当に無駄なことをしているとしか言えません。理由は上記の通りです。それがあたかも仏教の本質であって、我々仏教者こそが仏教の第一人者であるという態度が伺えますが、甚だしい限りです。あれは単なる個人の知識のひけらかしに過ぎません。

本当の仏教はむしろいかに言葉をなくすかです。いかに坐禅を組めるかということです。言葉が多いほど、それは誤りなのです。まさに教外別伝の示すところなのです。

只管打坐を唱えた道元禅師。嵩山の少林寺で壁に向かって坐り続けた達磨様、また今もなお、世間に注目されなくとも、世間とは一線を画して坐禅修行に打ち込んでいる若い修行僧の方々もおられます。そして何もなかったのように死んでいきます。

しかしそれこそが仏法の仏法です。仏法は彼らの姿に学んでください。実際の仏法、坐禅を行うのです。書籍などに答えは何一つありません。ましてや論争などと、お門違いにも程があると思うわけです。そんなものは読まなくていいし、捨ててしまいましょう。

坐禅がこの世界の唯一です。あるいは「言葉」なのです。あるいは本当の「教養」なのです。時に本当のこと、仏の命、我々の命、本当の輪廻なのです。

時に本当の安心、子孫の反映、格差問題、あらゆる物事もそこへ収まっていきます。「坐禅そのもの」がむしろ、本当の安心、子孫の反映、格差問題、あらゆる物事なのです。

坐禅だけあればいい。坐禅だけしかこの世界にはないのです。仮に戦争が起ころうが、災害が起ころうが、地球が滅びようが、会社が倒産しようが、個人の問題が起ころうが、安心して坐禅をして生きていき、坐禅をして死んでいけばいいのです。

時に財も、名誉も、豊かさも、忠義も、使命も、そこで「何か」は生まれるのです。ここでの「何か」はこの坐禅に含まれるのです。この「坐禅」のことなのです。これが人間の本当の生産活動でもあるのです。

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