坐禅とは?(短文ver.)

同シリーズ

寝ていても呼吸をしていて、またどんなに食ってもまた時間が経てば腹が減り、消化をして、排泄をする。そして何かを思ったり、何かを行動したりしている。

仏教を信仰する人も、キリスト教を信仰する人も、何も信仰していない無宗教の人も、我々の「事実」というのは等しく同じです。

また春になれば暖かさを感じられるし、夏になれば暑さを、冬になれば寒さを感じます。その春夏秋冬の季節の到来も、誰においても同じです。

実際には我々は何も変わらないわけです。全てが同じのわけです。

古今東西「考え方」の違いによって、争いや分断が起こったりしますが、実はそれは内容としては同じで、それは「実際の違い」なのではなく、単なる人間勝手な妄想で、いうならば見え方の違いでしかありません。例えば、自力か他力か。仏教かキリスト教か。禅か念仏か。そうしたことで、それが実は同じことなのです。

我々には違いがありません。全てが同じです。だからこそ、たった1つのことなのです。考えや、考え方ということすらもなく、全てはこちら側なのです。

宗教の違い、考え方の違い、人の違い。時にそれが我々の人生の全てを支配してしまうわけですが、ある意味ではそれは尊い人生を棒に振っているようなものです。仏教論争、あらゆる正誤、争いというのがいかに馬鹿げているかということです。

生れおち祖暁の二字は知らねども梅の梢にうぐいすが鳴く

これは江戸時代中期に活動した曹洞宗の禅僧、天厳祖暁禅師(1667年〜1731年)という方が残した歌です。

当時、黄檗宗門下に「曹洞滅却」の四文字を掲げられ、名実ともに腐敗していた曹洞宗門下でしたが、この祖暁禅師の詩歌によって「洞門にも人物あり」と認められ、その負のレッテルを剥がしてもらうことができたと言われております。

我々は今、人生の見え方を変えなければいけないでしょうし、本来であれば常に真実なる部分を見つめ直すことが大切です。そのようにして我々は本当の命を生きることができます。たった1度の人生を棒に振らずに済みます。本当の仏教はそれを実現させるものです。仏教は時代を問わず我々を本当に救ってくれるものです。

しかしそれらかかるものを「実際のもの」としたもの、本当にしたものこそが、本当のことなのであって、それが本当の仏教なのです。つまり仏教の仏教なのです。

でなければそれは単なる「大自然主義」となってしまい、ある意味ではまた誤解を生んでしまいます。

それが「坐禅」です。坐禅が本当の仏教、本当のたった1つのことなのです。それは坐禅を今組むことによって、本当の今ここが本当の今ここになるのであって、本当の輪廻が本当の輪廻になるのであって、本当の縁起が本当の縁起になるのであって、それらかかるものをかけて、ここにある全て、そこにある全てを、この世にある全てを全てとしてくれるからです。

坐禅が本当のことです。坐禅だけが存在しているのです。そして本当のことが「本当のこと」なのです。存在しているものだけが存在しているのです。

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