「香厳撃竹大悟」という有名な禅の公案(昔のお話)があります。
この公案はあまりにも有名で、今まで沢山の禅者もしくは研究者によって参究されて参りました。
これまでこの公案によって「道を開かれた」方もこれまでに沢山いたかと思います。
この「香厳撃竹大悟」という公案は曹洞宗をおひらきになった道元禅師が記された書物、「正法眼蔵」三百則に出てくるお話です。
恐れながら今回、私もこの「香厳撃竹大悟」を参究し、皆さんに分かりやすいようにこのお話の内容をお伝えできればと思います。
前回から始まったこの「香厳撃竹大悟」に関する参究。
- 考察編
- まとめ編
と2つに分けて解説をしておりますが、今回はその「まとめ編」になります。
ですので、今回本記事を読んでいただくに当たって以下の「考察編」から読んでいただけるとより本記事が分かりやすくなるかと思います。
とうしゅうきょうげんじ、しゅうとうだいし大意につぐ、いみなはしかん。そのせいそうびんなり。いさんのえかにありてたもんはっきなり。いさん一日言わく汝つねにとくところはことごとくこれ、しょうしょのなかよりきじとくしきたる。我今汝に問う。
なんじあしゅ、しょうげしてようじとなるとき未だ、東西南北をわきまえずこのときにあたりて我がためにときみよ。師あぎょす。あぎょしならびに、道理を説くも普くあいかなわず。また平静集むるところのもんじにおいてじんきゅうするにすべてこれこのあいかなう時節なし。
即ち嘆きひきゅうしてもろもろのもんじをもって火をもってねっきゃくす。即ち言わくわれこのしょうにあえてぜんをえすることをのぞまず、暫く山にいりて修行しさらん。ゆかん。
即ちぶとうざんの忠国師のきゅうあんのもとにいりて庵をたつ。一日道路を平常するにいしつぶてれきを捨てて竹を打つ響きによりて時において忽然として大悟す。即ちじゅありて言わく。一撃にしょちを忘ず。更にしゅうじをからず。どうようころにあがりしょうぜんのきにだせず、しょしょしょうせきなし。声色界の威儀なり。しょほうのつどうのものことごとくじょうじょうの期という。潙山聞きえて言わくここってせりと。
「香厳撃竹大悟」まとめ
まずは以下で前回の「考察編」の大まかな概要をまとめてあります。
宜しければご参考下さい。
- 昔、実に聡明で仏教の知識について沢山知っている「香厳智閑(きょうげんしかん)」という人物がいた。
- その香厳智閑の師匠である「潙山霊祐(いさんれいゆう)」は、香厳智閑に「生まれて間もない頃(父母未生以前)、知識が身に付く前の仏法の真実を教えてくれないか。」と質問する。
- 香厳智閑はその問に答えられず、自分に失望してしまう。
- その師匠の元を離れ、山にこもる日々を送る。
- ある日、お墓掃除をしていたら、掃いた小石が竹に当たる音を聞いて忽然としてお悟りを開く。
師匠である潙山霊佑禅師に、「生まれる以前の、父も母も生まれる以前の仏法の真実とは何か?」と問われた、香厳智閑禅師。
自分の中にあったそれまで培った知識を駆使し、「これだ!」と思うものを次々に答えていきます。
しかし、

「それは違う、それも違う、そんな事が聞きたいのではない!」
と、徹底的に自分が考えた答えを否定され続けてしまうんですね。
そして遂には、



「あぁ私はダメだ。私は今生においてはもう恐らく真実に目覚めることはできないんだ。」
と、この香厳智閑禅師はがっかりしてしまうんです。
そして、



「私は南陽慧忠国師(なんようえちゅうこくし)のお墓を守りながら、一生懸命掃除をし、そして一生過ごそう。
そういって、山の中に入って行ってしまうんです。そこで生活をしていきます。
そんな折、ある日庭掃除をしていたんですね。
ほうきで庭掃きをするのですが、その際使っていた箒の先にいしつぶてが当たるんですね。
そしてその小石が放り出されて、竹にカチーンと当たった音が響き渡ります。
その音を聞くことで、香厳智閑禅師はお悟りを開くことができたんですね。
これが今回の「香厳撃竹」というお話における大悟(お悟りを開く)の契機です。
それで、



「あぁそうだったのか!!」
と、お悟りを開くことができるのです。
それまでこの香厳禅師は書籍や文献を使って習ったり、覚えたりを積み重ねておりました。
自分の思惑ばかりを追いかけて、「自分はこうであるべきだ、悟りもこうあるべきだ」そう決めてしまっていたんですね。
そんな折に、それまでに自分が思い描いたことと違う「悟り」を、竹に石が当たった瞬間、目の当たりにしたんですね。
香厳智閑禅師が出会ったお悟り
それでは香厳智閑禅師が新しく出会った、今までとは違う「悟り」というのは具体的にはどういうものだったのでしょうか?
それまで香厳智閑禅師はこの悟りを海と例えるのなら、その海の表面である「波」の部分ばかりを追いかけてたんですね。
静かな「波」だろうが、荒れ狂う「波」であろうがそれは「海」の一部分でしかありません。
「大波」、「小波」どちらにしろそれらはその時、その場の表面上の状態でしかないわけです。
つまりそれまで全体を見ることができなかったんですね。
その一部分を追いかけてた自分にやっと香厳智閑禅師は気づくことができたんですね。
全体を行じる事ができなかったと言ってもいいかもしれません。
しかしこの「竹」に小石がぶつかる「カチーン」という音を聞いて、「全体」を初めて理解できたのです。
こういったことわざがあります。
波のザワザワザワザワする音が嫌だと感じ、山の中に住みたいと思った。
しかし、いざ山の中に行ったら今度は同じようにザワザワザワザワ、松風の音が気になってしまう。
このことわざでは、「逃げたり追いかけたり」、「追いかけたり逃げたり」を繰り返していく間に人生を終えてしまうぞ、という戒めをあらわしております。
これと似たような部分があるんですね。
この「香厳撃竹大悟」は道元禅師が書いた「正法眼蔵」三百則に出てくるお話です。
そしてこの公案を通して道元禅師が一番言いたいのは、



表面的な「波」ばかり追いかけてはいけません、それで終わってしまったら、掛け替えのない命がもったいないですよ。折角、今生に生を受けた掛け替えのない命なのに、その「波」の部分だけを捉え、追いかけまわす、或いは逃げ回る。それだけで人生が終わっってしまったら本当にもったいないですよ。だから「命の全体」を行じてください。
ということを言いたいわけなんですね。
だからこの「香厳撃竹大悟」というお話を出された。
この、「香厳撃竹大悟」の中には
という有名な「偈」が出て参ります。
「カチーン」と、竹に石が当たった音がする。
これはその音を聞いて今まで習い覚えた事を香厳智閑禅師は一切忘れてしまったということなんですね。
頭から無くなってしまったという。
迷いから悟りへ転換したいというのは単なる自分だけの思惑で、その思惑が竹に当たる石の音で、一切忘れてしまったというんです。
そんなものは元からなかったというのです。
「ああなりたい、こうなりたい。」という自分で作った目標。もしくは、「こうあるべきだ。これが真実であるべきだ。」という狙い。
しかしそのような「目標」や「狙い」というのは「大自然」には本来ありませんよね?大自然は常に真実むき出しで、何も包み隠しておりません。常にそこには全てが展開しているのです。
そういったものは思いや概念に分類され、それは人間にだけおこされるものです。人間にだけというのが仮にあったとしたら、それはもはや真実ではありません。存在していないのです。
そのような物は本来の大自然にはありません。


またこの「香厳撃竹大悟」には、
という一文がでてきます。
この「動揺(どうよう)」というのは、普段我々も使いますが、日常生活において「動いたり」、「動かなかったり」という意味を示しますね。
つまり我々の「一挙手一投足」のことも「動揺(どうよう)」と言えるわけです。
また「古路(ころ)」というのは、古仏の道に適っている。という意味になりますので、
我々の一挙手一投足全てが「仏の道」である。
という意味になります。
言い方を変えれば、
我々の一挙手一投足全てが「大自然」そのものである、ということなんです。
そのことを竹に小石があたることによって気付くことができたんですね。
それまで香厳禅師は「修行」と「悟り」、「私」と「大自然」という風に2つに分けて物事を考えていたんです。
しかし本来、「大自然」と「私」というものは一つものなんですね。繋がっているんです。
それが大自然の理なんですね。
例えば人間の呼吸一つとってもそうです。
我々の呼吸というのは大自然が発する「酸素」を吸って行われます。
つまりその「酸素」がなければ我々人間は呼吸ができないわけです。
そしてその呼吸をすることによって我々人間は生きられるわけです。
しかしその酸素はどこから運ばれてくるのでしょう?市街?県外?もしかしたら国外から運ばれてくる酸素を今こうして吸って生きているのかもしれません。
そうやって考えたときに「どこからどこまでが人間の命」なのでしょうか?
仮にここからここまでが私の命だとなれば、たちまちに我々は窒息死してしまうことでしょう。
あるいは今こうしていると、車の走る音や、カラスの鳴き声、サイレンの音が耳を震わします。
つまりそれらの存在によって、私の耳が鳴るということなんですね。それらによって私の命が生じるということなんです。
またスクランブル交差点で誰かとぶつかったとして、お互いが痛い思いをします。それは相手によって自分が痛い思いをした、自分の命が起こったということなんです。
誰かと手を繋げば温かく感じますが、そこにおいては全世界の誰とでも手を繋ぐことができ、そこで実際に温かさを感じることができます。
このようにこの世界のあらゆる命には線引きがないんですね。全てが重なり合っている。繋がっている。他が自分で、自分が他なのです。
「大自然」と「私」というのは「一つ」であるのです。そのことに気付いたんですね。
また、
とあるのは、普通であれば、自分の思い描いたものと実際に起きたことが違った場合や、目標を失ってしまった場合などは、それは「悄然の機(しょうぜんのき)」に落ちてしまいます。
つまりがっかりしてしまうはずです。
しかしこの香厳智閑禅師も本来自分が思いもしなかった「真実の悟り」と出会った。
それは狙いを間違えたといことにもなりますが、香厳智閑禅師は少しも意気消沈してがっかりすることがなかったというんですね。
何故なら、本当の真実の在り方を香厳智閑禅師は見つけることが出来たからです。
処処縦跡(しょしょしょうせき)なし。
これは「一瞬一瞬が二度と戻ることのない刹那の人生」であるということですが、実に嬉しかったんでしょうね。
そういった本来の「大自然の姿」を知ることができた。「真実の悟り」に出会う事ができた。
そのような思いが伝わってきます。
香厳撃竹大悟、最重要ポイント
またこの「香厳撃竹大悟」には、
というフレーズが出てきます。
そしてこの「「声色外の威儀なり。」というのが、「香厳撃竹大悟」という公案において最重要ポイントとなります。
「声色(しょうしき)」というのは「声」と「色」と書きます。
つまり耳と目の感覚のことを言っているんです。
「耳から入ってくる感覚と目から入ってくる感覚。」人間の感覚の世界において、この二つの感覚は非常に重要な物で、それに支配されているのが我々の日常でもあるわけです。
誰かの評価や世間の噂話そういったものばかりに我々はいつも振り回されてしまいます。
そして今回初めの香厳智閑禅師のように、そのような「波」や「形」ばかりに振り回されて、全体がまるで見えなくなっているんです。
道元禅師がお開きになった曹洞宗には「修証義」という聖典があります。
この「修証義」は法事やお葬式でよく僧侶によって読まれるものなのですが、その「修証義」の中に、
声色の奴婢と馳走す。(しょうしきのぬぴとちそうす。)
という言葉が出てきます。
これは「我々は感覚の世界に奴隷になっている」という意味なんです。
感覚ばかりに囚われて、全体がまるで見えていないというんですね。
掛け替えのない一度きりの人生を、「声色の奴婢」つまり、感覚の奴隷になっていいのか?そう我々に訴えかけているんです。
今回の「香厳撃竹大悟」には、
とありますね。
ここで言う「威儀(いいぎ)」というのは我々の日常生活のことです。
これはどういう事かと言うと、我々の日常生活で重要なのは、「声色の外」であるというんですね。
声色外の威儀であると。個人の感覚の外であると。
そして本来、我々の日常生活において目指すべきものはこの「声色外の威儀」であると、この「香厳撃竹大悟」ではおっしゃるわけなんです。
「声色外の威儀を目指す」というのは、要するに「感覚に訴えない、人の喜怒哀楽で生活をしないことを目指す」という事です。
禅の修行道場では常に大衆200人以上で共同生活を送っております。
僧堂で「ジャーン」と音が鳴ったらみんなで坐禅をして、また「ジャーン」と鳴ったら立って経行(きんひん)をするをただひたすらに繰り返すんです。
これはまるで元々敷かれたレールの上をただ歩いているような、実につまらない生活ですね。しかしこれが「声色外の威儀」なんです。
鐘が鳴ったら坐禅をする。これは人の「感覚」の世界ではないからです。つまる、つまらないの話ではないからです。
そこには一人一人の感覚や、喜怒哀楽などが入り込む余地もありません。
僧堂は本来の大自然を学ぶ場所です。本来のお悟りを行じる場所です。ですから禅の修行道場などでは全て、「声色外の威儀」の生活なんですね。これを重んじているのです。
禅の修行道場で多くの日数を送る内に、だんだん「こんなとこにいてもなんの役にも立たないのではないか」と疑問を持つようになります。
しかし、何の役にも立たないのがこの「声色外の威儀」なんです。
大自然は何も見返りがない。人間の思惑も通用しない。ただ真実が常にそこで展開されている。
同じように人間もただひたすらに「坐禅」を行じる。ただひたすらに大自然のままでいる。それが本当のお悟りなんです。
それが非常に重要なんだというんですね。
それが、この
という一文に表れているんです。
世間でいえば、この「声色外の威儀」というのは馬鹿にされる対象かもしれません。なんの役にも立たないからです。鐘が鳴ったら坐禅をするなんてこと、誰でもできるからです。全くもってつまらない。
一般の世界においては「声色」が全てです。
しかしその「声色」というのは、海の「全体」ではありません。
人間でいう「脳」という「表面」だけの部分です。
なので道元禅師は、日常生活において「声色外の威儀」を疎かにしてくれるなと、大切にしてください。と言われるわけなんです。
香厳撃竹大悟、終わり
この「香厳撃竹大悟」というお話は、道元禅師が「本来の悟りとは何か?」つまり、我々人間にとって「本来の生き方」とは何か?を説いたお話であります。
香厳禅師が小石が竹にぶつかった音を聞いて「大悟」した話から、この「香厳撃竹大悟」という公案は始まっていきます。
大きな悟りと書いて「大悟」と言います。一方で大きな迷いと書いて「大迷」と言います。
仮にこの世界に迷いしかなかったら、何も心配はいらなかったんです。迷いしかない世界だったら、悟りも迷いも生まれずに済みますからね。
どちらか一方のみだったら良かったわけです。
しかし本来はそのどちらでもないんですね。それは人間の概念で捉えたお話だからです。「迷い」や「お悟り」も、それは人間の言葉によって生み出された世界で、世界には本来そのようなものはないらです。
我々は常に救われているんですね。常に全てが真実むき出し。いつどこでもあらゆるものが一秒ごとに姿を変えていって、いつどこでも足をくめば痛い。いつでもどこでも呼吸ができる。いつでもどこでもカラスの鳴き声が耳を震わせる。
我々が気づこうが気づかまいが、真実は常にむき出しで、こうして全てによって生かされている。
全てが1つに繋がって支え合って生きているわけです。
道元禅師は、
という言葉をもってこの「香厳撃竹大悟」という公案をしめくくられます。
しょほうのつどうのものことごとくじょうじょうの期という。
というのは香厳智閑禅師が「大悟」したときに、歌ったとされる「偈」をそのまま引用されたんですね。



「諸法の真実に目覚めることができた!これこそが真実の在り方であり、宇宙一杯の世界であるんだ。」
そういう意味の偈(歌)となりますが、本当に嬉しかったんでしょうね。
その際、師匠にあたる「潙山霊祐禅師」がおられる大潙山の方を向かって、感謝の意を込めて五大投地の礼拝をしたと言われているんですね。
その噂を伝え聞いた潙山霊祐禅師は、
と。
潙山霊祐禅師は



「あぁやっと私の弟子、香厳智閑も真実に気が付いてくれたなぁ。」
というやりとりを紹介する形ででこの公案は終わるわけです。
前回の考察編、まとめ編を加えた2シリーズでこの「香厳撃竹大悟」を解説してきました。
この「香厳撃竹大悟」という公案は非常に有名なお話です。
今まで数多くの研究者や、実際の師匠と弟子の間でも過去、何度も取り上げられてきた事でしょう。
この「香厳撃竹大悟」はそのタイトルにもある通り、香厳智閑禅師という悩める僧が、小石が竹に当たった音を聞いて真実の「悟り」をひらくところから始まります。
そしてその話を取り上げ、真実の悟りとは何か?を説いたものがこの「香厳撃竹大悟」というお話なんです。
道元禅師は常に「人の正しい生き方は何か?」あるいは「真実の悟り」とは何か?について考えておられたのだと推測します。
そんな道元禅師だけあってこの一人の悩める僧の気持ちは痛いほど、感じたに違いありません。
そしてそれは我々も同じだからこそ、この「香厳撃竹大悟」という話がここまで世の中に受け入れられたのかもしれません。
この記事をお読みいただいたあなたにも何かのご縁があるはずです。
是非ここからより道元禅師の世界、真実の世界に没入していってください。
私はその為の役割を果たせればと思います。


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