今回は道元禅師がおしるしになられた「永平広録」の第467段の上堂を参究します。
『永平広録』第467段の上堂

蔵主(ぞうす)を請する上堂。云く。仏、大千を化するに教迹(きょうしゃく)来る。拳頭一たび挙すれば雲雷を作す。無辺の義海、朝宗のところ。八万の法門、打し得て開く。
仏さまが言いたかったこと
短い上堂になります。まずは、
蔵主(ぞうす)を請する上堂。
「蔵主」というのは、叢林の六頭首の一つ。「蔵経」を司る役職のことです。
その「蔵経」というのは今でいう図書館のことです。叢林には修行僧がたくさんいますので、誰でも経本などを自由に読める場所が設けてあります。そういった場所を司る非常に重要な役職です。
今回の内容は、道元禅師が修行僧の中から一人だけにその配役をお願いするといったものです。
そもそも禅門では「不立文字」、文字によらずということを盛んに述べます。
しかし禅宗にはむしろそういった書籍だったり、経本の取り扱いが多いのも特徴です。
「不立文字」といっておきながらそういった書籍がいっぱいあるような状態だというわけです。
そんな中にあってこの「蔵主」というのは非常に重要な役割なのです。
禅門にとって文字というのは真髄なのです。どう扱うか、どう参究していくべきなのか、どう捉えていくべきなのか、常にそのような視線を注がれる存在だからです。
余談ですが、道元禅師は「法華経」の信者だったという話があります。日蓮宗が拠り所とする「法華経」ですね。
今日色々な宗派があるわけですが、そこでは日蓮宗は「法華経」、密教は「大日経」など、必ずそれぞれの宗派において大事にしている経典があります。
禅門においてはそういった拠り所にする経典はどこにもないという姿勢ですが、その一方で非常に多くの経典を参考にしている実態があります。
話を戻しますと、今回の上堂では経典を管理する「蔵主」になってくださいね。と道元禅師が修行僧にお願いする上堂となります。
この時もそうですが、今もなお、修行道場では半年に一回こうした配役依頼のお触れがあります。
しかし当時はみんな変わるがわる、色々な配役をやっておりましたが、今日では例えば料理を司る「典座」という配役がありまして、それは役寮という一般の修行僧を指導する立場の人が固定的に担っております。またそういった役寮はその役職の適合性を買われ、そのためだけにお山へやってくる。そして長い期間その者に「典座」という配役を受け持っているような状態です。
重要な配役に関しては、当時と打って変わって、固定されているのが現状です。
ただその下の配役に関しては修行僧が担当し、今でも次から次に配役が変わっていきます。そのための配役依頼のお触れも今もなお、存続しております。
今回の上堂は今もなお続く、伝統的な配役交換がなされる時期の上堂になるわけですね。
次に、
仏、大千を化するに教迹(きょうしゃく)来る。
我々が住んでいるこの世界。それが千個集まって「小千世界」といいます。それがまた千個集まって「中千世界」。それがまた千個集まって「三千大世界」といいます。こうした宇宙観を昔の人は作りました。
太陽系があって、銀河系があって、またその外に世界があって。
そして仏様はそのあまりにも巨大な宇宙観を持って教化したが、その後に伝わってきたのが今日に伝わる「経典」である。
それが「大蔵経」というものである。
それがあなたが今後守っていくのですよ。大変重大な「大蔵経」ですよ。だからしっかり頼みますよ、ということを言われるわけですね。
宇宙いっぱいの命
それでは仏様は何を教化したのか?
例えば「私は饅頭が食いたい」といって、そこで饅頭をくれる人が「仏様」じゃないですね。
あるいは「私は足が痛いので足を治してください。」そこで足を治してくれるのが「仏様」でもないですね。
世間や我々人間の願い事を叶えてくれるのが、仏ではないということです。
仏が教化するというのはそういうことではない。
仏、大千を化する
これは、一体どういうことなのか。
例えば、みんなで話しながら縫い物などをしていると、少しおろそかになり、針でブスッと人差し指を刺してしまいます。
その時の痛さといったらない。
「イタタタ!!」
これは宇宙いっぱいの痛さですね。思わず声に出してしまうほど。
宇宙いっぱい、それこそ「三千大世界」に響き渡る痛さである。規格を絶した痛さです。あんな小さな針で人差し指を刺しただけで、それこそ「三千大世界」を飛び越えるような、宇宙いっぱいの痛さを感じます。
仏、大千を化する
仏というのはいつも「大千」を生きています。言い方を変えれば、「大千」が仏なのです。大自然そのまま、大自然丸ごと、宇宙丸ごとが仏です。
仏様だけじゃなく、また我々も実はその「大千」を生きている。宇宙いっぱいを生きている。人差し指を針で刺しただけで、「イタタタ!」となる。宇宙いっぱいの痛さを感じる。
そこでは誰とも比較なんてしてられないですね。誰かと比べて、この痛みは10ポイントのダメージだなんて、そんなことはないですね。
痛いものは痛いわけです。
普段はそんなこと考えたこともない、自分が宇宙いっぱいを生きているなんて。
こうしたことが「仏」であり、それを諭していくのが「仏の教え」、本来の「仏教」のわけです。
今回の「仏教の経典」には何が書いてあるか?というと、こうした宇宙いっぱいの話ばかり書いてあるわけです。
個人の話など一つも書いていない。もらいものがいただけるような話は一つも書いていいない。
みんな宇宙いっぱいを生きているんだよ、どうかそのことを理解してください。よ、というのが一生懸命書いてある。
経典というのはそのようなものなんですね。宇宙いっぱいというのがどういったことなのか?を知ってもらうためのものなのです。
真実の教え、言ってしまえば「真実」そのものなのです。
だから今回の配役はとても重要なものなんですよ、とそう言われるわけですね。
またみんな個人を生きているんじゃない、宇宙いっぱいを生きているんだよ、そういうことを知ってもらうためにお釈迦さまは説き続けている。
それが、
仏、大千を化する
ということです。
天地いっぱいの水、我々の生死
誰も死にたくなどありません。今まで築き上げたものを全部残していく。大切なひとと離れ離れになる。こんな怖いことはありません。
しかしこれも「自我意識」ですね。本来全てが1つの大自然です。針で指を刺せば宇宙いっぱいの痛みを感じる。常に宇宙いっぱいの命を生きている。我々の命や周辺事項というのは本来はこうした宇宙の所有なのです。
それでも人間はそのようなことに気づかず、自我を中心に生きています。
そして自分を中心に生きている以上、死にたくないと思うのが普通ですね、わたしの本音もそうです。
仏教ではそこをどう受けとめるか?
内山興正老師という有名な禅僧がおります。
その人が残したもので、「手水の歌」というものがある。
少し紹介します。
水はずっと存在している。増えもしない減りもしない。またそれはいきなりやってきたものではなく、過去からずっと続いている自然環境、因縁によって今ここに生じているのである。
そんな水と今、自分の手が合わさっている。そこでは冷たく感じる。つまり自分の手が「水」そのものであるわけです。
私という命も、水と同じように大自然の一部なのである。過去からずっと続いている自然環境、因縁によって今ここに生じているのである。
人は個人から生まれることによってその命が生じるわけではないんですね。
まぁ自我というのはそうかもしれないですね。「俺こそは!」というのは生まれてから徐々に備わっていくものかもしれない。
しかし実際の我々の命というのは、人は生まれることによって命を生じたのではないということです。
天地いっぱいの命がこの手桶のような「体」の中にくみとられたのだ。それが「私」だという。
人は死ぬことによって命がなくなるのではない。天地いっぱいの命が「私」という「思い固め」から天地いっぱいの中にばら撒かれたのだ。
また手桶の中の水(私)が自分から桶の外に出る(自殺)ようなことはしないですね。
非常に素晴らしい歌です。


天地いっぱいの水が天地いっぱいにばら撒かれたのだ。ばら撒かれただけである。
これが私たちの「生死」であると。本来我々が死んだり、生きたりすることはそういうことであると。
生きているだけで天地いっぱい。死んだとしても天地いっぱいなのです。
そういうお話がお釈迦さまや過去の祖師方が説いたお話。
「宇宙」や「大千世界」を説いたお話。
経典というのはそういったお話ばかりなんですね。
個人のスキルを上げるお話というのは、基本的には一歳ないんですね。
他のご宗旨のように何か1つに固執するわけにもいかないのです。
そのため一般的な「悟り」という話と道元禅師やお釈迦さまがお伝えになる「悟り」とは全く違いますね。
全てがあって、全てが含まれて我々の命。全てと一つなのが我々の命。
そうした「本来無一物」のこと「天地いっぱい」のこと、「仏教本来」を拠り所としているのです。そこではたくさんの経典を参考にするし、普段の生活そのものも重視しなければなりません。
そこでは悟ることなんてことはないわけですね。悟ってはいけないのです。常に天地いっぱいの自分、天地いっぱいの世界。そのような状況で、悟れるはずがないのです。
何かを悟るというのは、全てから離れた世界に閉じこるような話のわけですから。
道元禅師がおっしゃるのは宇宙いっぱいの話、常に共にしている宇宙いっぱいを行じているこの姿が「悟り」ということなんです。
曇りもそう、迷いもそう、病もそう。全てが含まれて「悟り」であります。我々の命であり、我々の生きる世界であります。
悟るというふうに区別するのではなく、常にこの悟りの世界を生きることです。生きなければいけないものです。
それが「坐禅」なんですね。なので「坐禅」そのものがお悟りなのです。
この天地いっぱいの自分がこの天地いっぱいの世界を生きる、そして死ぬ。それが悟りであり、坐禅だからです。
拳頭一たび挙すれば雲雷を作す。無辺の義海、朝宗のところ。
雷が「ゴロゴロゴロゴロ」と鳴るのと、我々が「ハックション!!」とやるのは同じレベルの話だと言えるかもしれません。
先ほども述べたようにこの世界に個人など全体などといった区別はないからです。
この禅門においては経典ひとつとってもとても重要なものだ。あらゆる教えが、あらゆる出来事が、あらゆる生活が仏法の真実だ。
そしてそれは川の水が海へ向かうようなもので、人間生活において人間が朝廷に向かうようなものだ。
自然なことだ、自然な道理だ。仏の導きであると。その道をどうか守ってくださいと。
八万の法門、打し得て開く。
人々にそのような真実に目覚めていただくためにたくさんの経典があるわけです。

それだけ重要な経典を扱うのだから、どうかしっかりお願いしますね。
今回はこのようなお話でした。
コメント