寒巌義尹(かんがんぎいん1217-1300年)禅師は、鎌倉時代に活躍した禅僧です。
本記事ではそんな寒巌義尹禅師と道元禅師の関係性について見ていきたいと思います。
それでは参りましょう。
こんにちは「harusuke」と申します。
2012年駒澤大学卒業後、禅の修行道場で修行経験を積み、現在は都内に暮らしております。
さて、我々は寝て起きると「昨晩食べたもの」がきちんと消化されています。
それではその食べたものを寝ている間に消化してくれたのは果たして「私」でしょうか?
ようこそ、真実を探求するブログ「禅の旅」です。
寒巌義尹禅師とは?
寒巌義尹(かんがんぎいん)禅師は、1217年から1300年までご活躍された禅僧です。
かの「後鳥羽天皇」の第三皇子としてお生まれになられたので、「法皇長老」とも呼ばれております。
寒巌義尹禅師は、はじめに比叡山にのぼられ天台学を学ばれました。
しかしその内容に満足できず、日本達磨宗の祖でもある「大日能忍禅師」の法嗣である「懐鑒(えかん)」様のもとをたずね、その門下になります。
そしてその後、その懐鑒様と共に、道元禅師の弟子となられるのでした。
建長5年、義尹禅師は中国の禅林の実情を知るために中国へ渡られます。
しかしその年の8月、師である道元禅師は病のすえ、お亡くなりになられてしまうんですね。
その報せをきいた義尹禅師は、急ぎ中国から帰国し、かつて日本達磨宗の門下として親しい間柄であり、なおかつ当時永平寺二世となられていた「懐奘禅師」について修行することとなります。
そして建長6年、懐奘禅師より菩薩戒を受け、ついにその法を正式につがれるのでした。
その後、文永元年、48歳のときに義尹禅師は再度中国に渡られます。
というのも、義尹禅師には、先師道元禅師が興聖寺や永平寺で大衆に向けて説かれた説法を、当時道元禅師が中国で時を共にした人々に示し、お墨付きをもらった上でその語録を日本で刊行したいという念願があったからなんですね。
というわけで再度中国に渡った義尹禅師は、天童如浄禅師の法嗣で、道元禅師と親交の深かった退耕徳寧禅師や、虚堂智愚禅師の下を訪ね、道元禅師の語録の校閲を頼んだというわけです。
そして文永4年、無事中国から日本に帰国した義尹禅師は、中国の祖師方よりお墨付きをもらった道元禅師の語録を永平寺にお返しするんですね。
その後、義尹禅師は博多の聖福寺に住し、さらに肥後の地に大慈寺を開かれるのですが、その下からは斯道紹由禅師や、鉄山士安禅師、愚谷常賢禅師など数多くの優れた禅僧が輩出されていくのでした。
この寒巌義尹禅師の系統は、寒巌派や法皇派と呼ばれ、日本仏教界に大きな貢献をしていくこととなります。
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