毎度お馴染みの道元禅師にまつわる「言葉」のエッセイ。
今回は「画餅(がびょう)」についてお送りいたします。
筆者のつたないつぶやきとして、楽しんでいただければ幸いです。
こんにちは「harusuke」と申します。
2012年駒澤大学卒業後、禅の修行道場で修行経験を積み、現在は都内に暮らしております。
さて、我々は寝て起きると「昨晩食べたもの」がきちんと消化されています。
それではその食べたものを寝ている間に消化してくれたのは果たして「私」でしょうか?
ようこそ、真実を探求するブログ「禅の旅」です。
画餅とは?
今回の「画餅(がびょう)」という表現は、一般の方でも昔からよく耳にする言葉ではないでしょうか?
「それじゃまるで画に描いた餅ではないか!」とか「どんなにあがいても画餅は食えん」とかですね。
また作家の芥川龍之介の「妖婆」という作品の中でも、
明日の晩お敏に逢えなけりゃ、すべての計画が画餅になる訣(わけ)だろう
とかですね。
或いはもっと昔で言えば、三国志で有名な三世紀の中国、魏王朝の言葉の中にも、
名は地に画(えが)きて餅を作るが、如し、啖(くら)うべからず
といった表現が出てくるのですが、評判というものは地面に描いた餅が食べられないのと同じで、実際には何の役にも立たないという意味でこの「画餅」という言葉が用いられているんですね。
そうやって古くから我々の生活に親しみのある「言葉」のわけです、この「画餅」という表現は。
因みにこの「画餅」の類義語としては、
- 絵に描いた餅
- 机上の空論
- 机上論
- 空想
- 理想論
- 絵空事
などがあげられますね。
またそのように多くの人から親しみを持たれている言葉でもあり、戒めの意味もあることから、「画餅」という名を自身のブランド名に用いる企業も増えているといいます。
さてこの「画餅」とは、「わひん」とも読まれ、その名の通り「画に描いた餅」のことです。
この「画餅」は今申し上げた通り、一般的には「画に描いた餅は食べられない」というわけで「何の役にも立たない」という意味でよく用いられる言葉です。
画餅と道元禅師
しかし、実際には「画餅」という言葉にはもっと深い意味があるんですね。
道元禅師がおしるしになられた『正法眼蔵』第24巻のタイトルがまさしくこの「画餅」なのですが、これは仁治3年(1242年)興聖寺で説かれたものです。
この「画餅の巻」で道元禅師がおっしゃっているのは、
三世諸仏も、大蔵経も、山川草木も、ありとあらゆるものは、仏法の筆で描いた画に他ならない
ということなんです。
世間一般的に言われている「画餅」とはまったく逆ですよね。
道元禅師はこの「画餅の巻」の中で、香厳智閑禅師の、
画餅は飢えに充たず
という言葉を引き、
多くの人々はこの言葉を、経典や解説書を学ぶことは、真の智慧を得ることではないから、それを画に描いた餅というのであると解釈している。しかしそれは大きな誤りである。
とおっしゃっているのですね。
つまり、ここで道元禅師が言うのは、
一切諸仏のすべてが仏法の筆による画であり、仏画であり、みな仏そのものである。
ということなのです。
そういったことをこの「画餅の巻」ではおっしゃっているんですね。
すべてが「仏」。
すべてが「画に描いた餅」。
すべてが「すべて」。
表現の仕方はどのようなものであってもいいはずです。
しかし、すべては一つの「命」として繋がっているんですね。
「すべて」は「すべて」ということなのです。
以上お読みいただきありがとうございました。
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