『永平広録』第470段の上堂を参究する。

今回は道元禅師がおしるしになられた「永平広録」の第470段の上堂を参究します。

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『永平広録』第470段の上堂

『永平広録』第470段の上堂

上堂。黄龍普覚禅師の上堂に云く、「三祖云く、『円なること太虚と同じく、欠けることなく余ることなし。良に取捨に由る、所似に不如なり』と。諸仏にあっても増さず、凡夫に処しても減ぜず、既に不増不減なり。什麼としてか無上菩提を証することあり、什麼としてか生死に堕在することある。ただ良に取捨に由るためなり。所似に教中に道く、『夢幻空華の如く、水中の月の如し、生死涅槃、空華の相と同じ』と。

道元禅師は黄龍慧南禅師を非常に高く評価され、道元禅師の記した書物にはことあるごとにこのお方の話が出て参ります。

ここでもその黄龍慧南禅師が「須弥壇上で御説法した内容」を取り上げていらっしゃいます。

鑑智僧璨禅師がしるした「信心銘」という書物の中に「円なること太虚に同じ、欠けることなく余ることなし」という一文があります。

黄龍慧南禅師はこの鑑智僧璨禅師を非常に慕われていたわけですね。

円なること太虚に同じ、欠けることなく余ることなし

この一文に黄龍慧南禅師は共鳴されたわけです。

この文に関して、「円か」ですから「円相」です。この円相が出てきたときというのは、始まりも無ければ終わりもないということを言いたい時です。つまり物事の「本来のあり方」についてお話しされたい時ですね。

我々人間には、いつも始まりがあって、終わりがあります。

例えば「寿命」がいい例です。寿命が来て死ねば自分の人生は終わりだと思っている。始まりがあって、終わりがある。そこでは「生」という始まりがあって、「死」という終わりがあると思っている。

しかし実際はそんなものはありません。私は全体で、宇宙そのものだからです。

例えば鳥の鳴き声がこうして耳を振るわす。それはつまり鳥が私だということなんです。壁を殴れば自分が痛くなる。それは壁が私だということなんです。

私が死んでもその鳥が死ぬわけではありません。私が死んでもその壁がなくなるわけではありません。

ここではA=B=C=Dなんです。

あるいは冬の寒い日に雑巾掛けをしようと思って、バケツの中に手を突っ込んだとして、そこではとても冷たい思いをする。自分という命がその時の状況に応じてしまう。宇宙環境にそのまま影響されてしまう。つまり宇宙=自分なんです。

またあるいは「何かを思う」ということも、それはその「思われる対象物」があって成り立つもので、その存在がなければ成り立ちません。それは思う前に思わされていること、見る前に見せられているもの、聞こえる前に聞こえていたものなのです。

最も良い例が「呼吸」です。私たちは呼吸をしなければ生きていくことができませんが、酸素があるからこうして呼吸ができるわけです。またその酸素提供者がいてくれるからそもそもそれが成り立つわけですよね。

しかし仮に「ここからここまでが俺の命」というふうに命に線引きができたとしたら、あるいはそのようなものがあったとしたら、即座に呼吸ができなくなってしまうはずです。

しかしそうはなりません。

この世の全てがそのように一つとしてあって、宇宙全体が一つものとして常に生き続けるわけですね。私が死ぬ時は宇宙も死ぬ時で、宇宙が死ぬときこそが私も死ぬときなのです。

仮に自分が骨になったとしても、いずれ風化され、大地へと帰ります。骨になったとしても、そこでは宇宙の真実をいただけているわけです。死してもなお、いただけているわけです。死してもなお、仏のわけです。

もちろん我々人間は概念を持つ生き物です。言葉を持つ生き物です。そこでは理解しやすいようにというので、そうした枠組みを作るんですね。定義を作ったり、本来1つの物事を分けたりしてしまうのです。

そして仮に事実に反していても、人間たちの都合の良いように架空の世界を作り出していってしまい、そこに滞留してしまう、それでも生きていけるのです。

便利だからそのようにしているだけの話なんですね。

冒頭の「生死」においても、始まりがあって終わりがなければ落ち着かないからなんですね。それがないと物事の整理ができないんです。

寿命は短いからそれまでに何かをやったり、何かを成し遂げること。そのように思った方が楽しいし、整理がつきやすいからそういうことを考えるわけです。

しかし真実の世界はそのように「円か」です。

どこにもひっかりがありません。

無条件で腹が減る。無条件で痛い。無条件で聞こえる。聞かされる。見せられる。

繰り返しになりますが宇宙が私で、私が宇宙なんです。

生命活動というのは全てこのようなあり方のわけで、ここにおいては取引きが一歳無いわけです。無条件です。

そのことを「太虚に同じ」、太く虚しいと。なんともない世界だというわけですね。

ことあるごとに文句をつけたり、始まりを作ったり、終わりを作ったり、そういったものは本来する必要がないんです。

本来必要ないのに作ってしまう。しかも存在しないものを。それが人間です。そしてそこで勝手に苦しんでいる。

有名な話に、「孫悟空」と「阿弥陀如来」お話があります。

阿弥陀如来と孫悟空が問答するわけですね。

孫悟空は筋斗雲に乗ってどこまでも一瞬にしていけるといいます。じゃあ宇宙の果てまで行ってみなさいという。

孫悟空もそれに応じて、宇宙の果てまで一っ飛びで行きました。そして目の前の五つの山に印をつけてきたわけですね。

そしてみたことか!と言わんばかりに阿弥陀様の元へ戻ってくる。

しかしよくみたら阿弥陀様の手のひらにその印があった、という有名なお話です。

宇宙の果てまで行ってきたと言っても、所詮阿弥陀如来の手のひらから出てこれなかったわけですね。

我々は宇宙という大きなものの中で一緒に生きている。と同時に、それは今、ここの話なのです。

宇宙とは一体です。我々の命もその宇宙と一体です。その私からして今ここ、目の前が宇宙そのものなんです。

そこを今の人間は壊そうとするんですね。本来宇宙いっぱいの全体の命を我々はこうしていただいていて、全てが繋がった命を生きているのに、それをあえて壊そうとするんです。

真実に気づいていないだけでなく、便利だからという理由で、どんどん突き進んでしまう。

宇宙を自分の外側に捉えて、その宇宙を手にしようとするんですね。本来目の前にあるのに。自分こそがその宇宙であるというのに。あるいは何かとても素晴らしいものが他にあったとして、それを求めて移動しようとしてしまう。

しかし「それ」と同じもの、繋がっているものが、今、ここ、この自分のそばにあるわけです。

むしろ自分がそうなわけです。

道元禅師はだから「自己」に親しむことを強調されるわけですね。この自己が全てであり、この自己しかこの世界にはないからです。この自己の展開が世界にあるものだからです。

人間が抱える問題はこうした概念による取り決めや、限定化によって生まれます。

生まれたばかりの赤ちゃんには、そうした作用がありません。

生まれた時は円相そのもの、完全そのもの、どこにも欠けるものがなかったというのに、育っていく過程でその円相が壊れていくのです。壊していくのです。

生きていくほど辛くなるのは、そういうわけだからなんです。色々なものも持ち込むようになる。色々な物差しができる。色々な感性や感情が生まれるようになる。携えるようになる。

今回の上堂において道元禅師は、黄龍慧南禅師のお話を取り上げておりますが、鑑智僧璨禅師の『円なること太虚と同じく、欠けることなく余ることなし。良に取捨に由る、所似に不如なり』の話における、こうした「気づき」を重視されていたわけです。

誰であっても変わりはない。諸仏だからといって、凡夫だからといって、円かが変わるということはない。この事実、仏法が変わることはない。

犬だろうが、犬のうんちだろうが、その事実に変わりない。

定価はないわけです。私もゴキブリも。本来の価値は皆同じのわけです。

こうしたことを「円なること太虚に同じ、欠けることなく余ることなし」という一文に見たわけですね。

そして「円なること太虚に同じ、欠けることなく余ることなし」を生きることが真実の生き方。無上菩提であるとここでは言っているわけです。

最近ではよく、「人は皆無心になれ」といったことを聞きます。

しかし本当の無心というのは何も考えないことじゃないわけです。坐禅して無心になれたというのはそれは無心じゃないわけです。また無心は好き嫌いをしないということでもないわけです。つまり無心とは心を無くすということじゃないわけです。

その好き嫌いに引きづられないこと、次から次に浮かんできたことに引きづられないことを本当の「無心」というんですね。

浮かんできてもいい。好き嫌いしてもいい。人間なのだから。そもそも「円か」なのだから。

それでも、それに振り回されないこと。これこそ、この本来存在しない概念と我々が本当にうまく付き合っていく方法だということです。

それに引きづられてしまうとこれは「有心」になってしまう。

それはまるで「水中の月」のようだ。架空のものにみな騙されているんだぞと。

本来そんなものはないんですよと。本来皆円相を生きており、その円相のなかで生きているんですよと。

こうしたことを今回、道元禅師はこの永平広録のなかで取り上げたのでした。

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