「今、ここ、この自己」の尊さ。自己が尊いのはこの世界は全て「自己」の展開だから。

今、ここ、この自己。今の私には「これ」しかありません。

また未来においても、過去においても、今、ここ、この自己。その積み重ねをただしてきたわけです。これからもしていくわけです。

生きるというのは、今、ここ、この自己の積み重ねです。

生きていくというのも、今、ここ、この自己の積み重ね。

生きるというのは今、ここ、この自己。これしかないのです。

我々にとって実際に手を使って行うこと、あるいはその場で手を介さず何かを思うということも、今、ここ、この自己がやっていることなんです。今、ここ、この自己の「展開」なんですね。

今、ここ、この自己。これしか「道」はないんです。「手段」はないんです。

今、ここ、この自己、その巡りなんですね。この世界というのは。今、ここ、この自己、これが世界に展開しているだけなんです。

今、ここ、この自分においては鳥の音が聞こえる、排気ガスが匂ってきます。つまり鳥というのは自己なんです。車とは自己なんです。それらは全て今、ここ、この自己なんです。鳥は自己の展開なんです。車が自己の展開なんです。この世界の全ては、今、ここ、この自己の展開なんです。

全ては今、ここ、この自己であり、この世には今、ここ、この自己これしかないんですね。これだけなんです。

先日、知人と些細なことで言い合いになりました。「言い合い」と言っても健全な意見の交わしあいです。

私は普段から仏教の勉強をしております。そのことを知人に話しました。

するとその人は「なぜ仏教の勉強などするのか?」と聞くわけです。

私は答えるんですね。「人々を救うため」だと。

即座にその人はいうんですね。「この世界に救いなどない。今ここ、ここにある全てが救いであると。そんな救いなど誰も求めていないし、もし本当にその人を救いたいのなら、そんな仏教の勉強などしていないで、物理的に金銭でもあげた方がよっぽどマシだ」と。

まさにその通りだと思ったわけです。私もそのようなことをこのブログでも繰り返しお伝えしてきたつもりですから、これには共感しかなかったわけです。

しかし「確かにこの世界には救いなどない。その通りだけれど、この世界に救いなどなく、全てが救いであるということくらいは伝えなければいけない。それをきちんと伝えられるようにするために私は仏教の勉強をしている」と、こう私は食い下がったわけですね。

若者同士にしては、このような大変頼もしいやり取りが先日実際にあったわけですが、その言い合いの際にもあった「この世界に救いなどなく、全てが救いである」という一節に際して、それはつまりどういうことなのか?という考察が確かに私は未熟だったなと思わされたわけです。

この世界に救いなどなく、全てが救いである

その通りなのだけれども、それをつまりどういうことか?それをもっとわかりやすく説明するにはどうすればいいのか?

目次

なぜ世界は俺だけなのか?

「救い」だとか、「救い」じゃないだとかは、この世界を客観視した時に見えてくる話です。あるいはこの「救い」という言葉じゃないにしても、「俺がみた」とか「俺が思う」とかもそうですね。こうした自我意識というのも、この世界を客観視して、この世界と自分とを一線隔てた、あるいは一線を画した場合に出てくるフレーズなんです。あるいは世界線なんです。

しかし「私が生きるという事実」においては、私は常に「生きる当事者」であります。常に息をし続けていて、常に老化している。絶えず消化しており、絶えず成長している。紛れもなくこの世界を生きている当事者のわけです。あるいは生かされている当事者のわけです。

いずれにせよ、この世界と常に1つとしてあり続けています。この世界と1つに溶け合っているから、こうして年をとるわけです。呼吸ができるわけです。

なので決してこの世界から離れることがないんですね。離れることができないのです。つまりこの世界と私というのが決して2つに分かれることがないのです。

仏が真に仏であるときは、オレは仏だなどと考えるものではない。オレは仏だなどと思っている時は、仏としての自分と、自分を見ている今1つの自分とに、自己が2つに分裂している。これでは正真正銘の仏ではない。仏である世界がそんなことを思わないように、自分もその世界と1つなのだから物事を分けて考えるようなことはできない。(佐藤俊明 禅のはなしより)

このようなことが本来だということですね。世界と自分とは1つということ、世界は自己の展開ということ。自分は仏であるということです。

そもそも「俺が見た」と人は言いますが、「俺が見る」前にそれはすでに見えていたのです。それは単なる後付けの説明で、実際の世界とは一切関わりがないんですね。起こったことに対して説明をしているだけに過ぎないわけです。またそこでどんなハレンチな思いが浮かんできたとしても、今述べてきたようにこの世界には俺がありません。その思いというのも俺がやったことではなく、大自然によって思わされた、いわば大自然の行いなのです。

上の記事でも言っておりますが、今までも再三このブログを通して、世界には「俺しかない」ということを声高に述べてきましたが、この部分の追求が不十分だったように思うんですね。

なぜ世界は俺だけなのか?

それは世界を作っている要素において、あるいは世界というシステムにおいては、いつでも、どこでも、今、ここ、この自己以外ないからなんです。この自己が世界だからです。

誰かと話したり、どこか旅行へ行ったり、今足を組んだり、何をするにしても、今、ここ、この自己が自己しているわけですね。

あるいは鳥の声が自分の耳を震わせる。つまり鳥が自分の命を起こすのも、酸素があって呼吸ができて生きることができるのも、他が自分だからでありますが、要するにこの自己が他であり、世界そのものなのです。

世界というのは、今、ここ、この自己が自己しているだけなんです。その話す相手というのも、手を握る相手というのも、今、ここ、この自己の展開なんです。今、ここ、この自己が自己している「話」なんです。

この世界には今、ここ、この自己しかありません。

これが要するに、諸法無我ということなんですね。世界は俺だけという話なんです。私があなたで、鳥が私だということなんです。

その自己をどうしていくのか、その自己にどう始末をつけるのか。

ここが要するに焦点となるわけです。今までもこれからも、今現在においても。これしかないんですね。

道元禅師は只管打坐をおすすめになり、自己に親しむことの重要性をお伝えになりました。

道元禅師だけでなく、過去の祖師方も同じです。この坐禅をおすすめになられたし、今、ここ、この自己の重要性を説かれました。

いきなり鼻を摘んだり、庭前の柏樹子だと言ったり、小石が竹にぶつかる音を聞いたり。

全て今、ここ、この自己の話なんです。世界には今、ここ、この自己しかないからですね。これ以外言うことがないのです。これ以外やることもない。これに親しむこと以外、救いはないんですね。言えることがないんです。他にできることがないんです。

いかなる場合でも自己が自己すればいいんですね。自己が自己するより仕方がないのです。生きている間は自己が自己する以外できることはないのです。

有名な「南泉斬却猫児」の話があります。猫に仏性があるか、ないかで争う小僧たち。結局何も言えなかったためその猫は切られてしまいました。どちらでもいいんです。そんなことは。大切なのは自己が自己することだったわけです。咄嗟にそこで動いて、南泉禅師の腕からその猫をかっさらってしまうことだったのです。しかしもちろん、そこで無言のまま頭を巡らせた。手も足も出なかった。どうすればいいかと思案したことも立派な自己です。

いずれにせよ自己の展開なのです。世界というのは。

救いとは何か?その来る時に備え、勉強するのも良いことでしょう。

しかしその人の言うように、実際にはそんなことを望んでいる人はいないのかもしれない。

本当の救いとは何か、そんなものはないわけです。今、ここ、この自己しかないわけです。誰もが生きている以上、同時に救われているわけです。自己が自己しているわけです。

仮にもっと何か他の重大なことがあったとしても、それに気づこうが気づけまいが、今、ここ、この自己以外ありません。あり得ません。

これまでも、今も、この先も。この自己が全てだということです。この自己のみだということです。

この世界は決して2つに分かれません。分かれないのだから、仏道以外ないのです。救いしかないのです。それはつまりこの自己しかないということです。

我々が行うべきことはその自己をもっと見ること、その自己をもっと大切にすること、その自己をもっと行うこと以外ないのです。我々ができることはそれだけです。足を組むこと、これが我々がしなければいけないことです。

時には他のことをしたり、どこかに遊びに出かけたり、また日中の暑い中椎茸を干したり。しかしそれは全て、今、ここ、この自己ということです。やらなければいけないことだということです。そしてそれは救いということで、仏道ということです。

このことに気づけるか気づけないかでも、その人の人生というのは変わってくるはずです。

それももっとわかりやすく伝えられるために、もっと勉強しなければなりませんね。

今回そのような思いにさせてくれる良い出会いがありました。

※今回、この自己の尊さについてお伝えしてきましたが、また別の視点でもこの自己の尊さを解説した記事があります。今回の記事は「自己が尊いのはこの世界には自己しかないから」という視点です。以下の記事は「自己が尊いのはそこにこの世界の正体、仕組みが詰まっているから」という視点です。どうぞご参考ください。

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