今、ここ、この自己。今の私には「これ」しかありません。
また未来においても、過去においても、今、ここ、この自己。その積み重ねをただしてきたわけです。これからもしていくわけです。
生きるというのは、今、ここ、この自己の積み重ねです。
生きていくというのも、今、ここ、この自己の積み重ね。
生きるというのは今、ここ、この自己。これしかないのです。
我々にとって実際に手を使って行うこと、あるいはその場で手を介さず何かを思うということも、今、ここ、この自己がやっていることなんです。今、ここ、この自己の「展開」なんですね。
今、ここ、この自己。これしか「道」はないんです。「手段」はないんです。
今、ここ、この自己、その巡りなんですね。この世界というのは。今、ここ、この自己、これが世界に展開しているだけなんです。
例えば今、ここ、この自分においては鳥の音が聞こえる、排気ガスが匂ってきます。鳥の鳴き声が自身の耳を震わせ、自身の命を起こす。つまり鳥というのは自己なんです。同じように車の排気ガスが私の鼻を震わせる。車とは自己なんです。
あるいは自分が寝ている間にもこうして体が呼吸をしてくださるから生きられるわけですが、その呼吸に必要な酸素というのはどこか遠くからやってきたもののわけです。
自分とはかけ離れた遠い場所からやってきた「私という命の源」のわけです。
つまり私という存在は「他」によってできているわけですね。
この世の全てのものはこのようにして生かし生かされの様相で、この世の全ての命は1つとして繋がっているわけです。
壁を殴れば痛い。人とぶつかってお互いに痛い思いをする。そこではお互いに命が発生してしまう。命に垣根がない。
世界は常に1つ、私はこの世界と1つなのです。
実際に真冬に雑巾掛けをしようと思い「バケツの中の水」に手を突っ込むと、驚くほど冷たいし、痛くなるはずです。それはまさに宇宙と自己との「間」に命の垣根がないからなのです。「宇宙」がそのまま「自己」であり、「自己」がそのまま「宇宙」なのです。
「天地同根万物一体」あるいはお釈迦さまの言葉を借りれば「大地有情同時成道」というわけです。
良寛さまは、人に借りたものや、その辺に落ちている石ころにも「俺のもの」と書いてしまったといいます。
全てが無我、全てが自我。
全ては1つ。同時。全ては私で、全ては「今、私の、この自己の展開」だというわけです。
なぜ世界は俺だけなのか?
例えば「救い」だとか、「救い」じゃないだとかは、この世界を客観視した時に見えてくる話です。あるいはこの「救い」という言葉じゃないにしても、「俺がみた」とか「俺が思う」とかもそうですね。こうした自我意識というのも、この世界を客観視して、この世界と自分とを一線隔てた、あるいは一線を画した場合に出てくるフレーズなんです。あるいは世界線なんです。
しかし繰り返し述べている通り、この世界は1つのわけです。
実際に今こうして息をし続けていて、老化している。絶えず消化しており、絶えず成長している。それはこの世界と1つに溶け合っているからなされることです。世界と1つだからこうして年をとるわけです。呼吸ができるわけです。
我々はこの世界から決して離れることがないんですね。離れることができないのです。客観視するということができないのです。この世界と私という風に2つに分かれることがないのです。
仏が真に仏であるときは、オレは仏だなどと考えるものではない。オレは仏だなどと思っている時は、仏としての自分と、自分を見ている今1つの自分とに、自己が2つに分裂している。これでは正真正銘の仏ではない。仏である世界がそんなことを思わないように、自分もその世界と1つなのだから物事を分けて考えるようなことはできない。(佐藤俊明 禅のはなしより)
このようなことが本来だということですね。
繰り返しになりますが、世界と自分とは1つということ、世界は自己の展開ということ。自分は仏であるということです。
そもそも「俺が見た」と人は言いますが、「俺が見る」前にそれはすでに見えていたのです。それは単なる後付けの説明で、実際の世界とは一切関わりがないんですね。それは起こったことに対して説明をしているだけに過ぎないわけです。それは「世界に見せられた」ものだというわけです。
あるいは今、どんなハレンチな思いが浮かんできたとしても、それは自然に出てきたものです。それに対し「こんなことを思ってしまった俺はバカだ」とか言ったりしている。しかしその思いというのも俺がやったことではなく、大自然によって思わされた、いわば大自然の行いなのです。
そもそもこの1つきりの世界で、「俺が」/「思う」という事態があり得ないのです。
世界のシステムにおいては、いつでも、どこでも、今、ここ、この自己の展開が正体です。この自己の展開が世界です。
例えば誰かと話したり、どこか旅行へ行ったり、今足を組んだり、何をするにしても、「今、ここ、この自己が自己している」というわけですね。その話す相手というのも、手を握る相手というのも、自己なのです。
全ては今、ここ、この自己の展開なんです。今、ここ、この自己が自己している「話」なんです。この世界には今、ここ、この自己しかありません。
これが要するに「諸法無我」ということなんですね。世界は俺だけという話なんです。私があなたで、鳥が私だということなんです。
この自己をどうしていくのか、この自己にどう始末をつけるのか。
ここが要するに我々人間の「焦点」です。今までもこれからも、今現在においても。これしか話題がないんですね。
道元禅師は「只管打坐」をおすすめになり、自己に親しむことの重要性をお伝えになりました。
道元禅師だけでなく、過去の祖師方も同じです。この坐禅をおすすめになられたし、今、ここ、この自己の重要性を説かれました。
いきなり鼻を摘んだり、その時目の前にあった庭前の柏樹子だと言ったり、そこで小石が竹にぶつかる音を聞いたり。
全て今、ここ、この自己の話だからです。時も自己。因縁も自己。全てが自己。世界には今、ここ、この自己しかないからですね。これ以外言うことがないのです。これ以外やることもない。これに親しむこと以外、何もないんですね。言えることがないんです。他にできることがないんです。
逆にいえば「自己が自己をすること」が全てであり、救いでもあるということなんです。
いかなる場合でも自己が自己すればいいんですね。自己が自己するより仕方がないのです。生きている間は自己が自己する以外できることはないのです。
有名な「南泉斬却猫児」の話があります。
猫に仏性があるか、ないかで争う小僧たち。結局何も言えなかったためその猫は切られてしまいました。どちらでもいいんです。そんなことは。大切なのは「自己が自己すること」だったわけです。咄嗟にそこで動いて、南泉禅師の腕からその猫をかっさらってしまうことだったのです。しかしもちろん、そこで無言のまま頭を巡らせた。手も足も出なかった。どうすればいいかと思案したことも立派な自己です。
いずれにせよ自己の展開なのです。世界というのは。
例えば「救い」とは何か?その来る時に備え、勉強するのも良いことでしょう。
しかし残念ながらそんなものを文献に求めたところで、正しい答えは載っていないわけです。なぜならこの世界に救いなどないからです。本当の救いとは何か、そんなものは探してもないからです。
この世界は2つとして分かれません。この世界には何もないのです。
今、ここ、この自己しかないわけです。
つまり誰もが生きている以上、全てのわけです。同時に救われているわけです。この自己がある以上、全てなのです。
仮にもっと何か他の重大なことがあったとして、またそれに気づこうが気づけまいが、今、ここ、この自己以外「何も」ありません。あり得ません。
世界とはこの自己なんです。全てはこの自己なんです。真実はこの自己なんです。
わからなくなったら、鼻をつまんでみる。あるいは去年と今年とを見比べてみる。風化されて確実に年をとっていることがわかるはずです。あなたは紛れもなくこの世界に生きています。年を取ること、これがこんなにもありがたいことだとそこで気づくはずです。
この世界は決して2つに分かれません。全ては自己で、この世界にはこの自己しかないということです。
また分かれないのだから、仏道以外ないのです。救いしかないのです。つまりこの自己が仏道であり、救いなのです。
この世界ではすべてが繋がっております。全てがこの自己であり、この自己の展開なのです。今、ここ、この自己だけがこの世界にあるものなのです。
従って今、ここ、この自己が自己していることがこの世界にある唯一の「動き」であり「存在」なのです。
だから道元禅師は全てを忘れ、ただ坐れというんですね。「只管打坐」をおすすめになるのです。
それだけがこの世界にあるものだからです。それだけが我々が生きていくということだからです。あるいは死んでいくということだからです。
『修証義』には「生を明らめ、死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」とありますが、この坐禅こそが全ての結論だということです。
時には他のことをしたり、どこかに遊びに出かけたり、また日中の暑い中椎茸を干したり。しかしそれは全て、今、ここ、この自己ということです。全てを包括している行いだということです。やらなければいけないことだということです。そしてそれは救いということで、仏道ということです。
このことに気づけるか気づけないかでも、その人の人生というのは変わってくるはずです。
それももっとわかりやすく伝えられるために、もっと勉強しなければなりませんね。
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