お釈迦さまの御臨終に際しては、チュンダ村のスジャータという村娘から豚肉の施しを受け、それをいただいたことによって、今で言う下痢を催された。それが原因でお亡くなりになったと言われております。
施されたお肉、それが実は腐っていたというのです。とても人間が食べられたものではなかった。
それでもお釈迦さまはありがたく、その腐ったお肉をいただくんですね。
現代の日本のように、食料があまりあって、いつも捨ててしまうほど皆豊かな生活をしているわけではありません。
他人は愚か、自分たちの食事すらままならない、そのような生活を強いられていた時代だったはずです。いくらその相手がお釈迦さまといえど、自分の生活を顧みず、他の人に対し貴重な食糧を施すことは簡単なことじゃない。
スジャータがやったことは実に尊いことだったわけです。
このスジャータに限らず、あらゆる人、あらゆる物。目の前に出されたからにはいただく。その食事がどんなものであろうと、仮にそれが腐っていようが、あるいは虫が湧いていようが、施しというのはどんなものであってもありがたくいただくこと。
そのような思いを大切にされていたのでしょう。
残念ながら最後はこのような結果になってしまうわけですけれども、お釈迦さまをはじめ、後の仏教徒もこのことについて恨むなんてもってのほか、とても感謝をされるわけです。
「よくも我が尊師を死に至らしめたな!」なんて誰一人として言わないわけです。施しをしてくださってありがとうと、こう言うわけですね。
お釈迦さまは自身が衰弱していく中にあっても、チュンダ村を初め、スジャータのことを大切にしました。そして弟子たちに対しても、これからもこの村のことを大切にしなさいと言い残します。
その教えの通り、のちの仏教徒によってチュンダ村は大切にされ続け、今でも多くの人が訪れる有名な仏教観光地となっております。
「スジャータ」という人物に関しても、日本ではとある企業名にもなるほどの認知度ぶりです。
その行いは実に尊いものとして今もなお語り継がれているのです。
自分を顧みず、他を生かそうとする布施行。結果はどうであれ、人としてこれほどまでに尊いものはありません。
この世界の全てがこのような布施行で埋め尽くされればどんなに良いことでしょう。苦しむ人間はもっと少なくなるはずです。もっと思いやりのある社会になっていくはずです。
しかし今の我々の生活態度はどうでしょう。利益を追求し、他を貶めてまで成り上がろうとする。他人のことなど眼中にない。自分のことばかり考えている。そのような人間ばかりになってしまいました。
かくいう私も残念ながらそのような部類の人間です。
人間というのはとても利己的な生き物です。常に自分1人の力で生きているような気になっている。
でも、例えば1番身近なこの呼吸に関しても、大自然が無償で提供してくれる酸素を使わせていただいているわけです。また指示をしなくてもきちんとこの肺機能が働いてくれる。
あるいは消化に関しても、そもそも作物や穀物、動植物という自然の恵みがあって、またそれをいただき、さらにそのいただいたものを寝ている間にもこの胃腸が休まずに働いてくれている結果です。
このようにして我々は生きていけるわけです。安心して生きていられるわけです。
我々は気付いていないだけで、自分という人間1つとっても、またその中の小さい行い1つとっても、このような支えがあって成り立っているわけです。
本来生きているこの世界、大自然というのは、すべてが施し合いの連続だというわけですね。その施し合いによって成り立っているのです。全てがこの布施行だというんです。
太陽が何の見返りも求めずに我々を照らしてくれるのもそうです。また雨が降って不思議と農作物が育つのもそう。そしてその農作物が市場に出回るのもそう。全てが布施です。施し合いです。施しあっているから我々は生きられるわけです。
施し合うことが「生きる」ということなんですね。
他の生物は全てその姿を行じております。きちんと施しあっているのです。人間だけが、それに気付かずに、あるいはそれを壊すような生き方をしてしまいます。
お釈迦さまをはじめ、大自然の教えである仏教というのはこの布施の教えなんですね。大自然の教えなのです。大自然を、道理を大切にされるわけです。
この布施を行い、この布施を受ける。それが我々の生き方です。あるいは仏教の教えなのです。
お釈迦さまは当時から有名な方でしたから、それまでの活動を慕って施しをしてくださる人も多かったことでしょう。今回のスジャータもそうです。布施をしてくれた。
そしたら次には、何があってもそれをいただくのが道理です。そしてその施しをしてくださった人を尊ぶのが道理です。
そしてそのいただいた恵みによって、今度は自身が活動をする。あるいは僧侶の活動をする。仏教の活動をする。回向辺照。
これが我々の行うべき行です。布施行です。
いただいたら、今度は返す。
そうやって世界を回していくのです。世界は回っているのです。いただいたからには、今度はそれを大自然にお返ししていく。
このようなことを守っていけば、世界はもっと良くなるはずです。本来のやり方を取り戻していけばもっと世界は良くなるはずです。
高度な文明が必要なのではありません。必要なのは本来の「布施行」です。これだけあれば我々は何も心配せず生きていけるのです。またそれは誰もが行えるものです。
仏教のお坊さんがよく行うものに「托鉢」というものがあります。これも布施行の一つです。
こちらは暑い中何時間とそこで托鉢を行う、お経を唱える。施すということ。
一方で、お経を聞ける。生き仏を見ることができる。人々にとってはそれがありがたいわけです。それが思いとなって、喜捨という形になるわけですね。これも施すということです。
布施と布施の重なりです。大自然のあるべき姿です。
そこに入れられた金額がいくらであろうと関係ない。仮に数百円であってもお茶とおにぎりくらいは買える。その日だけでも生きられればいい。そうやって命は繋がっていくわけです。
施し合うことができるこの世界では本来何も必要ないんです。自分を誰かが必ず支えてくれる。そんな自分も必ず誰かを支えてあげられるのです。
本来はこのように誰もが無事に毎日を生きられるようになっているのです。
この托鉢もまさにこの大自然の成り立ちそのものです。この世界の生き映しです。仏教徒にとって、最も大切な修行です。
この世界に自分だけでどうにか出来ることなど1つとしてありません。全て施し合いによってまかなまれている。他によって生かされている。
生かし生かされ。それだけなんですね。
施しをすること。施しあって助け合うこと。そのようにして大自然は保たれているのです。
托鉢もその一環で決して、貯金や利益のためにやっているわけではないのです。これが本来の社会の一環の行いだということです。
今回布施というと大袈裟ですが、誰かを支えてあげたい。その気持ちさえあればいいのです。そして少しだけ形にしてみる。
それだけで十分、生きていけます。これからも人間は生きていけます。
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