一闡提とは

一闡提とは

道元禅師にまつわる「言葉」のエッセイ。

今回は第⑯弾といたしまして、「一闡提(いっせんだい)」についてお送りいたします。

筆者のつたないつぶやきとして、楽しんでいただければ幸いです。

目次

一闡提とは?

一闡提とは

「一闡提(いっせんだい)」とは、仏教の正しい教えを信じず、さとりを求める心もなく、仏となる素質を欠く者のことをいいます。

サンスクリット語の「icchantika(イッチャンティカ)」の音訳になり、「断善根(善行を断じた者)」、「信不具足(信をもたない者)」などとも呼ばれます。

あるいはこのことを「有性闡提(自身で成仏することは難しいが、仏の力によって最後に成仏できる者)」と読んだり、「大悲闡提(衆生を救済するために自分の意思によってあえて成仏しない者)」と呼んだりもします。

要するにこの「一闡提」とは、どのような人間が成仏できないのかを考えることなのです。

例えば「たとひ、ほとけになるべき功徳熟して円満すべし、といふとも、なほめぐらして、衆生の成仏得道に回向するなり」という道元禅師のお言葉に対し、「これは全ての衆生の救済のために精進し、自らは成仏しない大悲闡提の思想である」という風な意見をする学者がおります。

このようなことが「一闡提」について考えるということなんです。

また冒頭でも述べたように「一闡提」とは、「仏教の正しい教えを信じず、さとりを求める心もなく、仏となる素質を欠く者のこと」をいいますが、ここでの道元禅師のように、「衆生を救済するために自分の意思によってあえて成仏しない者」も含まれる為、一概にネガティブなワードともいいきれないということなんです。

この「一闡提」について考えるときに、そもそも成仏とは何か?それにこだわる意味は何か?を考えなければなりません。

例えば普段からこの言葉は「お前のような人間は成仏などできないぞ!」というような脅し文句で使われたりもします。

非常に軽く使われることの多いこの成仏という言葉ですが、我々にとってこの成仏とは何かを真剣に考えなければいけません。

そしてその答えが正しくわかった時、この「一闡提」にまつわる問題がどのようなものなのかもわかってくることでしょう。

一闡提の輩

しかし事実として、我々誰しもがみな生まれながらに仏性を備えている(一切衆生悉有仏性)ので、成仏できる可能性があるのは間違いないことです。

そこではただ好き勝手に生きていて良い訳がありませんね。

我々人間が仏なのは、「仏性」を備えているから「仏」であるわけで、そこから芽を出さなければ仏にはなれないからです。

当然努力をしなければならない。

加えて、名聞利養を欲求してばかりの者は気を付けなければならないと戒めていく必要があるわけですね。

その戒めの意味として成仏についてや、今回の「一闡提」という言葉が各所で用いられてきたのではないかと推察します。

例えば『大乗理趣六波羅蜜多経』の中に、「一闡提の輩は、永く断滅せむ」という表現がでてきますが、まさにそういうことですね。

まぁ今回の「一闡提」という内容は非常に高尚な「仏教思想」であり、わたしのような人間ではとても太刀打ちできない内容です。

これ以上話を続けると私の浅はかさ加減を露呈してしまうことになりますので、今回はこの辺にしておきたいと思います。

お読みいただきありがとうございました。

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