今回は道元禅師がおしるしになられた「永平広録」の第469段の上堂を参究します。
『永平広録』第469段の上堂
上堂。記得す。僧、保福に問う、「雪峰、平生何なる言句あってか、霊羊角を掛ぐ時に似たることを得る。」福云く、「我、雪峰の弟子作ること得ざるべからざるや。」圜悟禅師、拈じて云く、「孔翠羽毛、麒麟頭角、重重の光彩、的的相承す。陥虎の機を明らめんと要せば、須く嶮崖の句を施すべし。書くのごとくなりと雖然も、ただ与麼に来ることを知って与麼に去ることを知らず。或し山僧に問うことあらん、五祖、平生何なる言句あってか、霊羊角を掛ぐ時に似たることを得ると。ただ他に対して道うべし敢て先師に辜負せずと。還た委悉すや。山高うして那ぞ白雲の飛ぶを礙えん。」師云く、或し永平に問うことあらん、天童、平生何なる言句あってか、霊羊角を掛ぐ時に似たることを得ると。ただ他に対して道うべし、天童往日、拳頭を弄す。触破す、野孤多歳の窟。もしさらに問うことあらん、這箇はこれ天童平生の句、和尚の分上、また作麼生。ただ他に対して道うべし、永平一生、総て天童より先に眠らず。
禅宗形式においては師匠が必ずいます。弟子のいない人は中にはいるけれども、師匠がいない人というのはおりません。
師匠は絶対です。仏法においてなくてはならない存在。それが「師匠」という存在です。
ところで「鹿」というのは、ある説によると危機回避のため、眠るときに枝に角をかけて、自身もその木にぶら下がるようにして眠るといいます。
そうすることで追いかけている猟師は「鹿」の足跡を見つけることができなくなってしまう。よって自分の身を守ることができる。
いきなり消えた「鹿」の足跡に因み、これは形が残らないという「お悟り」本来のあり方を示しているわけですね。「鹿」自体がお悟りなのと、その「鹿」の行動というのがお悟りそのものであるということを示唆しているわけです。
「お悟り」とはどういうものかというと、このように跡形も残さないということです。大自然というのは形が残りません。残ったとしても少し経てばなくなります。糞とかがそうですね。これこそが悟りであると。大自然が悟りであると。
仏教とは大自然のことですね。お悟りとは大自然のことなんです。
人間がよく概念で捉えている悟りとは少し違います。概念というのは変化しません。頭の中で起こっている出来事で、物事の本質とは関係がありません。
そこで圜悟禅師が保福従展和尚に尋ねます。

お師匠様のお師匠様(雪峰様)は平生、どのような言葉を持ってお悟りを表現されましたか?
それに対し、保福従展和尚は「私は間違いない雪峰禅師の弟子ですよ」と答えた。
これだけで問答は終わっております。
これはどういうことか?
冒頭の師匠と弟子の関係の話にも寄りますが、越後の良寛さんは岡山県の円通寺で12年間修行しておられました。
その修行時代においては、仙桂和尚という兄弟子がいました。
その仙桂和尚は30年黙々と修行に励んでおられたんですね。
知識もひけらかすような真似もしない。禅語の一句も言わない。
そんな仙桂和尚和尚こそ真の修行者だ。
このようなお言葉を良寛さんは残されております。
当時は良寛さんでもわからなかった。
仙桂和尚が見ていた世界がわからなかった。
真の仏法と会うことができなかった。
仙桂和尚はただ坐禅を組むのみで、何も言わない。ヒントもくれない。跡形もなく、何も残さないような人でした。
そんな仙桂和尚は本当の意味で悟りを得ていた人だったわけですね。ただ大自然そのものである「坐禅」を組むこと。ただこの大自然と共に生きること、大自然が大自然すること。これがお悟りで、それを形に残したり、誰かに任せたりすることはできないわけです。
それも本人が気づくしかないんですね。このお悟りというのは。良寛さんであっても自身が出会うしかないんです。
大自然というのは雄然だからです。どこにおいても大自然いっぱい。それゆえ、全く掴みどころがなく、人にそう思わせる節というのも多岐に渡るからです。
これが悟りの難しいところですね。中には全く出会うことのできない人もいる。
しかし大自然に出会うこと、真実に出会うこと。本人が足を組めば痛いこと。これだけで本当のお悟りのわけです。坐禅を組めばそのお悟りに出会うことができるわけです。そのお悟りそのものだというわけです。一寸坐れば一寸の仏という言葉もあるくらいです。
仙桂和尚はひたすらに、その姿をお示しになられた。
今回のお話にも登場する「圓悟禅師」。かの碧眼録を作った「圓悟禅師」。
その圓悟禅師が言うには、孔雀の綺麗な羽。麒麟の頭角。仏法はこういうものだと言う。
また仏の働きを明らかにしたいものであれば、断崖絶壁の厳しいものでないといけない。と。
人間が近づけない、つまり人情を超えたものでなければならないと。
そしてこれを施さなければならないと。
これも1つの真実でしょう。
一方で道元禅師は言われます。
「お師匠様はその昔、握り拳で出鱈目な奴らをみんな潰していた。私の解脱の言葉はお師匠様より先に眠らないことだ」と。
みんなそれぞれにお師匠様との関係性があり、そこには解脱の心があります。しかしそこにおいては同じことですね。大自然のことをお伝えになられている。
そしてそれを守りながらひっそりと暮らし、真実の教えをお守りになられております。
富士山の登頂を悟りに例えると、道順はそれぞれ違っても、行き着く場所は同じなわけです。
どこにいても契機はあるわけですね。我々の身をおくこの世界はどこを切り取っても真実のみで、その世界に我々はいつも命をいただいているわけですから。
仏法相続においては師匠さえいればいいんです。その師匠とは大自然をお示しになる人です。大自然そのものです。大自然が我々の師匠です。
大自然を師匠とすることができるか。今、ここ、この周りにある全てのことが師匠だと気づくことができるか。
弟子たちはここを問われているわけです。



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