今回は道元禅師がおしるしになられた「永平広録」の第472段の上堂を参究します。
『永平広録』第472段の上堂
上堂。挙す。三祖大師云く、「至道無難唯嫌揀択」と。這箇を見聞して知らざるものは則ち云く、「諸法善悪なし、一切邪正なし、ただ性に任せて逍遥し、縁に随って法曠す。所似に一切の善悪邪正、揀択せずして趣向するなり」と。あるいは云く、「いわゆる揀択せずというは、言語を用いて道わざるなり。ただ円相を打し、払子を豎起し、一拄杖を卓て、拄杖を擲ち、一掌を掌ち、一喝を喝し、蒲団を拈来し、拳頭を拈来して対すれば便ち得し」と。恁麼の見解、未だ凡夫の窟を出でず。もし永平に問わん。作麼生がこれ揀択底道理と。祇だ他に道うべし、金翅鳥王は生龍にあらざれば食せず、補処の菩薩は兜率にあらざれば生ぜずと。
高祖様(道元禅師)が須弥壇上に上られてご説法を始めました。
その際「これから昔の人の公案を取り上げる」と。
鑑智僧瓚禅師があらわした「信心銘」という有名なお経がありますが、その冒頭に、
至道無難、唯嫌揀択
とあります。
今回、「この内容が全ての内容を言い尽くしていると。仏法を言い尽くしていると。仏法はこれでもう十分だ」と、そのように言われるわけですね。
「至道」というのは「真実」という意味です。道というのは「菩提」のこと。
至道無難ですから、その真実に至ることは難しいことではないと言うこと。なんら難しいことはないという意味です。
ただその時に「揀択」については嫌う必要があって、それができたなら仏法に至れると。これがあっての仏法ギリギリの教えだと。
この世界の全てのものは真実の現れです。宇宙全体の在り方を成しております。まさに至道です。難癖のつけようがない。私も、犬のうんちも、スマートフォンも、どんなものも。
ところがそこに人間の価値観が入ってくる。するとそこに序列ができたり、不平等さが出てきたり、いろんな問題が出てくる。至道がそうでなくなってしまう。本来仏の世界が、人間生活に成り代わってしまう。
そうした問題が生じてくるのはこうした揀択が始まるからであると。全て揀択のせいであると。
仏教者の信仰は、至道無難、唯嫌揀択である。
揀択を嫌え。そこでは、人間の手で洗うような、調整するような、きちんとしたコントールも必要だというわけです。
確かにこの世界は仏の世界で、そこではあらゆるものが真実を現成している。そういう世界に我々は生きているということ。
しかしどうしても自分の好みで世界を生きてしまう。選り好みしてしまう。
これは真実に反するということ。真実が見えなくなってしまう。とてもつまらないことじゃないかと。
例えば、貧しかったら貧しい世界でいいじゃないか。苦しかったら苦しい世界でいいじゃないか。騒音のうるさい場所だろうが、田舎だろうが、なんだっていいじゃないか。
本来どこにも行きつまりなんてものはない。そこではこの世界の真実が包み隠さず現れている。
そのことに気づければ至道無難であるという。そしてそのために唯嫌揀択が必要であると。
そのようなえり好みをしてくれるな、概念を捨てろと。それができたなら、真実に至れると。
つまり我々が真の道を行くためには、至道無難、唯嫌揀択だけでいいと。簡単じゃないかと。
「縁に随って法曠す。所似に一切の善悪邪正、揀択せずして趣向するなり」と。
しかしそこで注意が必要なのは、この至道無難、唯嫌揀択も自分なりにいいなぁと受け止めてしまったら、それはむしろ危ういことである。
それは間違った解釈になってしまうから。自分勝手の至道無難、唯嫌揀択を解釈し始めるから。
例えば「諸法に善悪なし」。「あらゆるものに邪生もない」。あるいは「この世界は真実だ」、「この世界に善悪なんてない」といったことも、それを頭の中で捉えるということは、それは正しくはない。なぜならそれは単なる意識で、自分勝手の解釈と変わりがないから。要するに人によってその尺度が変わるからです。正体が変わるからです。
それでは揀択の本質を捉えることができない。本当の真実には到達できない。真実に反していることとなる。
それを確かに実践してこそ、存在させてこそ証明になるわけです。
もちろんそれはこの「真の仏法について」を誰かに説明するとしたら、免れない伝え方なのかもしれない。
しかしそれは単なる概念であるということ。本質ではないということ。そしてそれは人間の自我やエゴイズムと変わりがなく、自己満足の手段でしかない。本当の安心ではない。
概念というのは伝える手段としては役に立ちますが、あくまでもそれは実物ではないということです。それは「それ」ではない。100ではない。真実ではない、真実として手渡すことはできない。
結局は正しく伝えられないということです。
仏法を伝えるためには言葉を使ったり、概念に頼ったりしてはいけないのです。
世界は真実だと、人は生まれながらに救われている。
しかしそうやって言って安心しているようではいけない。それは単なる自己満足なのであるということ。本当の安心ではないと。
自分で満足する。自分の好きなことをやって満足を得る。習性に任せて自分の好きなことをやろうとする。それはお金を大金を得て安心しているのと同じことです。結局は本当の安心ではないのです。
そしてこれが人間の悪習である。仮に仏法の名がそこにあるとしても、それは例えば犯罪のようなものなのだと。仏法がそれを助長しかねることになる。仏法を自己満足の延長にしてはならない。
本当の意味で、真実を伝える。正しく人を導き、自己満足やわがままを修正するのが、本当の教育であり、仏法者の務めであると。
「いわゆる揀択せずというは、言語を用いて道わざるなり。ただ円相を打し、払子を豎起し、一拄杖を卓て、拄杖を擲ち、一掌を掌ち、一喝を喝し、蒲団を拈来し、拳頭を拈来して対すれば便ち得し」と。
これまで仏法者はそこを工夫してきた。いかに真実を伝えるか、いかに真実を真実させることができるか、そこを工面してきた。あるいは今回のように至道無難、唯嫌揀択であると言ったりする。
さらにそのことを言葉でいうことができないからといって、円相を示したり、一喝したり、拳を出したり。そういうことをしてきた。
しかし我々がその同じ道を辿るのは、過去の祖師方の真似事で、二番煎じである。
もちろんそれでも良いわけだが、
もし永平に問わん。作麼生がこれ揀択底道理と。祇だ他に道うべし、金翅鳥王は生龍にあらざれば食せず
道元禅師もし私に本当の至道無難、唯嫌揀択とは何かと聞くものがいれば、私は概念で持って、こう答えるだろう。
羽ばたくと海はみなひあがってしまうほどの金翅鳥王(架空の鳥)。そこで龍が出てきて、生の龍だけを食べる。決して死んでいる龍は食べない、生の龍しか食べない。
これだと。これが私の至道無難、唯嫌揀択であると。
しかしこれは揀択ではないかと?思われるかもしれない。龍が好き嫌いしているのではないか、と。
またそれが仮に正しかったとして、結局は「概念」による説明ではないかと。
違う。これぞ、至道無難、唯嫌揀択だという。
金翅鳥王は生の龍しか食べられない。他にもパンダは笹しか食べられない。それぞれのものがそれぞれのあり方を示している。コアラはコアラで唯嫌揀択底である。あるいは生の龍を食べること。それが「金翅鳥王」その者の正体であると。
至道無難、唯嫌揀択。これは物事の正体が問われている。我々の正体、真実が問われているわけで、それを頭で理解しようと思ってもできない。仮にこのように概念として持ち掛けようと、そこを理解する必要はない。なぜならそれは結局は概念であって実態がないから。単なる説明だからです。また実態がないということは存在しておらず我々のみならず、あらゆる物事においても正体ではないから。本質ではないから。
要するにこうしたことは取るにたらないことなのです。どんな角度だろうが、なんだろうが構わない。
それにこのように世界は常に至道無難、唯嫌揀択である。
彼らは好き嫌いをしているのではない。至道無難、唯嫌揀択を生きている。そして至道無難、唯嫌揀択を生きられるのは、本質を行じているから。本質に生かされているからだ。むしろそこで選り好みをしているからだ。ただただ本質のまま生きていられる。概念にまかせない。概念に支配されない。そういったことを彼らは何もせずともできるわけだ。
人間だけが好き嫌いをする。概念遊びをしてしまう。「仏である」ということも概念に任せる。概念で捉える。
そんなことは、金翅鳥王もコアラもやらない。人間だけがそのようなことしてしまう、外れた道を歩んでしまう。
補処の菩薩は兜率にあらざれば生ぜずと。
しかし我々からすれば、この揀択も立派な仏の呼吸であると。我々はやはり、概念を入り口にそこへ到達していくしかないと。
そのことをこうして「概念」で持って説明をされたわけです。「概念に頼るな、概念は危険だ」ということも、結局は概念で伝えるしか手段がない。
あるいは我々は生きる上で、唯嫌揀択するしかない。
つまり我々には概念が必要なのです。概念ぐらしが我々の生活のわけですね。
だから坐禅を組むこと。坐禅を組んで、仏の世界に帰ることだ。坐禅はそういったあらゆるものの到達点である。概念だろうが、そうじゃなかろうが、そんなつまらないことにとらわれる必要はなく、仏として仏になる。
なぜなら坐禅はこの世界の「本質」だからです。何があっても、どこであっても、誰であっても「本質」だからです。
この坐禅こそが、あらゆる至道無難、唯嫌揀択だったというわけです。これが我々にとっての真なる道だったのです。
そのことを高祖様は懇切丁寧に、お伝えになって下さったわけです。
そしてそのようなことをひっくるめて、確かな命を生きること。真実の道をいくこと。
とにかく好き嫌いはやめて、ただ坐禅を組んでくださいと。
道元禅師がこの話を通じて最も言いたかったこと、それは人間の好き嫌いはやめて、坐禅を組んでくださいということ。我々人間という生き物について、またそこでの概念運びについてよく知ってください、ということでした。



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