『永平広録』第478段の上堂を参究する
先妣忌辰の上堂。乞児、鉢盂を打破する時、桃李縦い霜と雪とを経るとも、吾が仏の毫光、十方を照らす。光光微妙にして法を演説す、這箇はこれ仏祖の処分する底、さらに衲僧行履のところに向ってまたかつ如何。拄杖を擲下して大衆を顧視し、右手の指をもって指して云く、看よ看よ、衲僧の拄杖、巾斗を打す、触処一時に業識裂く。
高祖様が須弥壇に上られてご説法されました。
先妣というのは亡き母ということ、そのお母さんへのご供養のため上堂をされました。
道元禅師のお母さんは藤原基房の娘だと言われている。
藤原伊子。
非常に美しい女性だったと言われている。
当時、京の街は非常に乱れていた。
平家が占領していた、平家の時代だった。
その時、後白河天皇の子供が源氏の頭領、源頼朝、木曾義仲、お互いは従兄弟の関係になるが両方とも源氏の頭領を名乗っており、そんな木曾義仲に勅命を下した。
その命を受け、木曾義仲が兵を上京させて平家を京都から追い出すわけです。
公家たちは恐れた。
そしてその当時、絶世の美女と呼ばれていた藤原威子を木曾義仲に側室として差し出した。
当時十六歳の藤原伊子、非常に美人であっっと言われている。
その後、木曾義仲も落ちぶれて、藤原伊子は久我通親の側室になる。
そして道元禅師が生まれる。
しかし道元禅師が八歳の時に母であるこの藤原伊子は亡くなってしまう。
母親と死別する。
非常に辛い幼少期をお迎えになる。
無常を感じて、母親の親戚筋であった人を頼って、当時天台宗の高僧だった人を頼って、出家をされる。
そのような経緯がある。
これはそんなお母さんの年回忌法要に関する、四十七回忌とか、道元禅師五十一歳、亡くなる晩年、一年七ヶ月前の上堂です。
現在もそうですが、法事するときにどのような気持ちで行うか。
一般的には両親に対して、感謝の気持ちを表すのが通例です。
ありがとうございましたと。基本的には。
今あるのは両親のおかげだという気持ちがあるから法要ができるわけです。
事実、今あるのは両親のおかげです。
だから人生にとっては誰にとっても感謝しかないはずです。そしてそれに気づくことができれば、もうそれで成仏です。
なかなかそれに気づくことができない。
余談ですが殺人で一番多いのは親族殺人だと言います。
亡くなった親に対し、回忌法要を行うというのは、親にありがとうという気持ちを伝えるのと同時に、心配いらないよと伝えるためのものでもある。
道元禅師のお母さん、藤原伊子にしてみれば自分で産んで、八年で死別してしまった我が子は私のことを思って心配しているだろうと思われているかもしれない。
だからどうぞ安心してくださいと。
道元禅師は当時久我通親、名門中の名門、そんな久我家の期待を一心に背負って、生まれてきた。
そのことを母親も心配しているだろうから、心配してくれるな。そのような思いで今回の上堂をされた。
乞児、鉢盂を打破する時、桃李縦い霜と雪とを経るとも、吾が仏の毫光、十方を照らす。
乞児というのは乞食のことです。
こつじき、食を乞う。
日本でお寺の住職が食を乞うなんてことはほぼありません。
日本の托鉢においても食ではなくお金を喜捨してもらうわけです。
しかし本来は乞食ですね。
朝と昼の食を頂戴する。
南方仏教の托鉢では、朝一番でぐるっと町中を回る。
そしてご飯をいただいてくる。それを朝と昼の食事とする。
午後になってしまうと食べることができませんので、寺の小僧にあげたり(彼らは午後になっても食べられる)、それでも残った場合はご供養する。
川とか池にそのご飯を魚にあげる。保管は一切しない。
そのような形が本来の基本でそれが乞食であり、僧侶のあるべき姿です。
そんな乞食の子供、道元禅師ご自身のことを述べられている。
ご飯をもらうときには応量器といって一番大きな器でもらい歩く。
それを鉢盂と呼ぶが、その鉢盂が破れてしまった。
修行僧にとって全財産が無くなってしまった。
道元禅師にしてみれば永平寺の冬は非常に厳しい、托鉢に行くことすらできない。
まさに鉢盂が破れてしまった状態だったのでしょう。
ひもじい思いをしながら冬を越えていた。
道元禅師の母親からずれば非常に厳しい時節を経験しているなと思っているかもしれない。
自分は豊かなお嬢さんとして育った。
我が子はこんなひもじい思いをしている。
安心していないかもしれない。
もっと豊かな生活をしていれば母親は安心できるのかもしれない。
ところが自分は乞児であります。
乞食の身になった道元禅師でありますから、お母さんにたいし、長い年月が過ぎようと、仏の光が照らすと。
手塚治虫の「三つ目が通る」ではないですが、仏様というのは両目の間にもう一つ目がある。
みんな仏はこの毫光を持っている。
その毫光を持って十方をテラス、宇宙を照らしているから、どうか安心してくださいよと。
本来の人間の生活をして、仏として生きている、だからどうか安心してくださいよと。
光光微妙にして法を演説す、這箇はこれ仏祖の処分する底、さらに衲僧行履のところに向ってまたかつ如何。
演説するというのは、大袈裟な感じがしますが仏法における演説というのは言葉を持って懇切丁寧に概念説明するのとは違います。
この時期は金木犀の花が満開になります。
近くによると、良い香りがする。そういう時期であります。
この金木犀の花が演説している。
金木犀の花で悟った人がいる。
宋の時代に、オウテイケイと呼ばれる有名な禅僧がいる。
そのオウテイケイが師匠に質問する。真実の仏法への近道を教えてくださいと。
すると師匠が、一緒に山道を歩いていたのでしょう。
ちょうど崖の上に咲いている金木犀の花、ちょうど辺りに香る金木犀の花。
そのときに師匠が逆にオウテイケイに質問する。
お前は金木犀の香りを聞けるか?金木犀の香りがちゃんとするか?と。
はい、ちゃんと聞けますし、香りますと答える。
お師匠さんはそこでオウテイケイに「我汝に隠すことなし。」
いつでも真実は丸出しじゃないか。いつでも法は演説しているじゃないかと。
そこで悟ったんですね。
なので演説というのはいつもむき出しの状態のことをいうわけです。いつでも説法していることをいうわけです。
金木犀の花が説法している。
ただこちらの受け止める側が、自己のフィルターを使っているから、それを見ることができない。真実を受け止められない。
目の前に展開する全てのものが法を演説している。真実を表現している。
なので冬場は非常にひもじい思いをしているとしても、いつも真実はむき出しですよと。
お母さんに言うのと同時にそこに集まっている修行僧たちにも言っている。
これが仏祖の在り方であり、本来の自己の在り方である。
このようにしてみなさん仏法を学んでいきなさいと。
確かに仏法は貧しいかもしれない。
出家したからには乞食でありますから、貧しさが基本です。
だからそれを忘れてくれるなと、修行僧にいうわけです。
人、一人一人には食べられる量が決められている。
何も心配しなくていい。
この二千年、坐禅をして餓死したものは一人もいない。
当時永平寺の貧しさに皆修行僧は耐えていたのでしょうから、だからどうぞ心配するなと、そういう内容です。
仏祖の処分とは皆そのようなものであると。貧しいものだと。
腹を減らしながら修行をしているのが一番尊いのだと。一番豊かなのだと。
拄杖を擲下して大衆を顧視し、右手の指をもって指して云く、看よ看よ、衲僧の拄杖、巾斗を打す、触処一時に業識裂く。
道元禅師は自分の右手で持っていた杖をポンと投げ出し、そこに集まっている修行僧たちに見よ見よと。
巾斗というのは斧のことですね。
斧というのは、刃の部分は非常に重く、柄が小さい。
なのでポンと投げると、簡単にひっくり返る。トンボ返りする。
杖を投げたところ、杖が投げられたところは、今までの常識的な概念を打ち破る。
会津地方のおもちゃで「起き上がりこぼし」というのがある。
この「起き上がりこぼし」はどこへ投げても、ちゃんと立つ。
「投げられたところに座るこぼしかな」という歌がある。
それでは投げられたところというのは、一体どこなのか?
平成元年に貧乏寺の次男坊として生まれた。
男として生まれた。
なんでこんなところに産みやがってとは言わない。
そここそが投げられたところです。
生まれた時もそうですし、今ここも、投げられたところ。
みんな投げられたところ。
文句言わずそこで生きるしかない。
「投げられたところに座るこぼしかな」。この「起き上がりこぼし」のように。
そこには今までの常識的な考えは一切通用しない。
人間は名誉や地位や、お金を得なければならない。
これは確かに常識ですね。
しかしもっと大切なものがあるんじゃないのか?
そんなもののために生まれてきたのか?
名誉や地位や、お金は所詮飾りでしかない。
そんなものを持ってあの世にはいけない。
お母さんどうか、そのようなことをわかってくださいよと。
お母さんからすれば私の今は非常にひもじそうに映るかもしれない。
悲しまれるかもしれない。
しかし私はちゃんと自分をいただいて、今を一生懸命生きていますよ。
だからどうぞ安心してくださいと。
このような道元禅師のお母さんに対するおもいが込められた上堂であります。
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