「自由」とは何か?について「鈴木大拙」氏の観点で考察する。

本記事では「自由」とは何か?臨済宗で有名な仏教学者の「鈴木大拙(すずきだいせつ)」氏の観点を参考に考えていきたいと思います。

結論から言って、我々は常に自由な命を生きています。

そのはずなのにいつも人間関係や仕事の問題で苦しんでしまう。

それでは一体「自由」とは何なのか。

この記事を参考に、あなたが普段考える「自由」とこの記事で言う「自由」。

その違いについて考察してみてください。

目次

誰しもが漏れずに乗り物に乗れる

別冊太陽「道元」出典「普勧坐禅儀」部分 大本山永平寺蔵『天福本』

道元禅師のしるされた書物に『普勧坐禅儀』というものがあります。

その『普勧坐禅儀』本文の中に、

宗乗(しゅうじょう)自在、何ぞ功夫(くふう)を費(ついや)さん。

という一文が出てきます。

ここでいう「宗」というのは「大元」という意味です。

つまりここで言う「宗」とはここに生きている我々の今(大元)の事をいうんですね。

そして「乗」とは乗り物の意味です。

ここで言う乗り物というのは、ありとあらゆる物を乗せる乗り物をあらわしております。

なのでこの「宗乗」とは誰一人漏れる事無く乗せられる乗り物という意味で、「宗乗」という訳です。

つまり「大乗仏教の教え」をあらわしておるわけですね。

この「今の命」に立ち帰ること、「大元(命)」を行じる事が仏法の基本であり、大乗の教えであるというわけです。

ここでは、

「誰一人漏れる事無く乗せられる乗り物」

とあります。

つまり、誰一人漏れずにこの「乗り物」に乗れるということなんです。

そして何故誰一人漏れずにこの「乗り物」に乗れるのか?というと、

誰しもが平等で自由自在な命を行き、生きながらに救われている

からなんですね。

これが仏法の基本です。

つまり、「仏法」とは修行の結果得られるものではありませんし、一生懸命努力して得られるものではありません。

本来の我々の命こそ「仏法」であるという訳です。

お釈迦様も次のように言っています。

「我と大地有情(だいちうじょう)と同時に成道(じょうどう)す。」

これは今からおよそ二千五百年前のインドで、お釈迦さまがお悟りをひらいた時のお言葉です。

つまり、

「我々の命」と「大地」は同時に救われている。

という事なんですね。

我々は既に救われていると。

そういうわけです。

「自由」とは何か。

それでは、以上を踏まえていただいたところで本記事のテーマでもある「自由」について考察していきましょう。

出典「wikipedia」

昔、「鈴木大拙」という有名な方がおりました。

「釈宗演」という臨済宗の僧のもとに就いて学び、真実に目覚められました。

またこの方は1870年から1966年までの生涯を全うされた方で、大正から昭和にかけて活躍した臨済宗の「仏教学者」です。

「禅」についての著作を英語でしるし、日本の禅文化を世界に広く知らしめたお方でもあります。

近代日本の最大の仏教学者とも称されるお方なんですね。

そんな有名な「鈴木大拙」という方がある言葉を残されました。

それが、

「肘外に曲がらず」

というものです。

これは「何が本当の自由ですか?」という質問に対して、この「鈴木大拙」氏がお答えになったものです。

さて「肘」というのは人間の体の重要な部分で、人間活動において大切な役割を担っておりますね?

何かを持ったり、何かを押したりする際に重要となるわけですが、その肘を「内側」に引っ張ることでこのような腕の活動を支えております。

そのように、元々肘の関節というのは内側に曲がる仕組みになっており、「外に曲がらない」ようになっております。

内側にしか引っ張れないというのは人間の「共通の仕組み」として約束されてたことなんです。

必ず肘の関節は内側に動く。

外側には決して動きません。

この「鈴木大拙」氏に言わせると「肘外に曲がらず、これが本当の自由である」と言うのです。

どういうことか?

我々は自分の頭で考えると、「自由」というのはなんでも出来ることが「自由」だと思ってしまう。

例えば、空を飛べたり雲に乗っかれたり、仕事に行かなくて済んだり。

そういうものを「自由」と考えるわけです。

しかし「鈴木大拙」氏が言うには、「肘外に曲がらず、これが自由自在である」というんですね。

というのも「肘」が365度、外側にも内側にも縦横無尽にクルクル回ってしまったらこれは本来の「腕」ではなくなってしまうんです。

肘の役目を果さなくなって、いらないものとなってしまう。

しかし、肘が外に曲がらないおかげで我々は人間活動を全うできるわけです。

繰り返しになりますが我々は自分の頭で考えると、自由というのは「何でもありの、何をしてもいい」という発想になってしまいます。

極端に言えば「人を殺しても自由だ、俺の自由だろ。」という風にいつも自分を、俺をっていうのを中心にしてですね物を考えた自由が本当の「自由」と錯覚してしまう。

しかしそういったものは単なる「発想」であり、「概念」にしかすぎません。

肘が曲がらない、こういった絶対的な約束があるおかげで我々はそういった「発想」や「概念」を持つことが出来るのです。

つまり「肘外に曲がらず」これが本当の「自由自在」であるというわけなんですね。

おわりに

今回は大正から昭和にかけて活躍した臨済宗の「仏教学者」、鈴木大拙氏の観点から「自由」について考察しました。

本当の「自由」とは一体何なのか。

いかがだったでしょうか?

あなたの考える「自由」と、本記事で解説した「自由」にどこか違いがあったのではないでしょうか?

この記事があなたのお役に立てれば幸いです。

お読み頂きありがとうございました。

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