そろそろこのシリーズでも語ることがなくなってきました。ある意味、順調にやってくることができたということです。
さて、繰り返しになりますが、ここは「全体」です。全体による全体が「この世界という仕組み」です。あるいは「今、ここ、この状況」の仕組みです。「私」という仕組みです。「全て」の仕組みです。
今、ここ、あれ、それ。一切合切がただただ、そうなのです。全体の全体なのです。今のこの自分も、全体が全体しているだけ。全体の全体。あるいは電車で居合わせたうるさい中年の男の存在も、それをうるさいと思う自分自身も、またその行為も、その「全体の全体」というわけです。
そこで「何かを思うこと」ができるのも、そこで「何かを行うこと」ができるのも、そこで「生きること」ができるのも「他」という存在があったからで、つまりそれは「他」という命の続きであって、要するにそれは「他」の結集体だったからです。「他」そのものだったからです。そうした結果が今、ここ、この私という存在。あるいはそこ、かしこなのです。
常にその瞬間瞬間において、私というのはそうさせられているのであって、それは「全体の全体」だということなのです。常にどこにおいても全体が全体をしているわけです。生きるうえでも、生かされるうえでも、必ずや全体的となり「全体という意味のみ」だということ。「それ」だけが常に言えること、常に正しいことなのです。
この「全体」から外れたり、逃れたりすることは決してできません。
そこでは繋がってしまうから、全体として全体してしまうから、何かに対しうるさいと感じ、気候に対し寒いと感じ、今こうして生きているわけです。そこが結果的に繋がっていたから、他が存在し、それと繋がることができていたから、我々は生きることができたのです。
あるいは今こうした暖かくもあり、寒くもある絶妙な季節感を逃さずに感じられるのは、万物である仏法と私とが「一体」であり「同時」だからです。常に寸分も違わずに何かを聞いたり、匂ったりしたり、見えたりするのも、万物である仏法と私とが常に「同時」だからです。
時に「我々は生きている存在か」、それとも「生かされている存在か」、こうした議論がやかましいわけですが、実はそのどちらでもないわけですね。我々はそのように分かれる以前の「全て」なのです。今までもそうですし、これからもそうです。
私は全体、あるいはこの世界というのは全て「全体という現象」なのです。道元禅師は「正法眼蔵生死の巻」において「この生死はすなわち仏の御命なり」と述べられております。
あるいはこのことを「繋がり」とも言えるかもれしれません。
確かに生きていく経過途中にはいろいろなことがあり、人によって様々で、また人によって全く違う中身にもなるため、そこではいろいろな考え方ができることと思います。例えば「俺は自分の努力でこのような素晴らしい人生を生きてきたんだ!」と。あるいは「こんなにも病弱だったけれど、こうして長生きすることができた、私は生きているのではなく生かされていた存在なんだということに気がついた」と。
しかしそのようなさまざまな「人生」や「考え方」においても、全体の「結果」だったということ。全体の一部見え方ということ。ただ「それ」をまっとうしていた存在だったということ。「それ」としてあり続けていた存在だったということ。「個人」や「人生」、そこでの「考え方」というのは全体の一部見え方でしかないのです。
どんな人生、どんな人、どんな境遇であっても、何があっても、いつどこであっても、鳥の鳴き声に耳を震わされ、真冬になれば寒いわけです。我々にとってはただただ、ただただ、「それ」のみなのです。我々というのが「全体」なのです。我々というのが「仏」なのです。「全て」なのです。
繰り返しになりますがその全体から逃れることができない。私自体がその「全体」だからです。全てはその途中で、自分がその状態のことですから、見ることも感じることもできない。もはや「何か」という話でもないわけです。ある意味では「何もない」わけです。これを「空」と呼んだりするわけです。
そしてそれはどうすることもできない、避けられないもの、そこではどうしてもそのようになってしまっているものなのです。何があっても全体として生きてしまう。全体に繋がれてしまう。我々は仏として生きること以外できないのです。仏に生かされる以外ないわけです。全体として全体する以外ないわけです。
またそれは絶対的なものだということです。約束されていることだということです。これまでのことも、今のことも、これから起きることもそうなのだということ。全てが絶対的な繋がり(仏)、常にそれだけが展開しているわけです。
何があっても、そうなってしまう、何があってもそれ以外のことがない、だから何があっても安心なわけです。
尽十方界真実人体、過去現在未来がただそれだけでした。ただ「全体」が「全体」しており、私というのは、ただただ「全体」のだったのです。他のみんなも、他の全ても、ただただ「全体」のだったのです。これからもそうです。
常に「それ」だけのわけですから、あるいはそれ以外のことがないわけですから、我々は「何かを言う」ということがそもそもできないわけです。同様に「何も言う必要もない」わけです。何も心配する必要がないわけです。何もする必要もないわけです。あえて苦しまなくていいのです。
全体の全体で、それはたった1つの出来事で、いついかなる時もそのようになってしまうわけですから、何があっても大丈夫なのです。仮に明日死のうと、陽の目を浴びない人生だろうとです。
夜の強風でほうきや、ちりとりが山内に打ち捨てられてしまおうと。仏教に出会えず死んでいこうと、せっかくの旅先できれいな海が見えなかったとしても。そこでも全体(仏法)が全体(仏法)しているのです。そのようなことも全体(仏法)が全体(仏法)されているのです。常にその状態、絶対にそうなっている、約束されている。これ以上ない安心状態だということです。
何があっても我々は常に全ての有り様なのです。今ここは常に全ての有り様なのです。今までも、これからも、我々は常に「それ」のみなのです。この世界は「それ」のみなのです。常に仏の中にいるのです。仏なのです。
火葬され骨になったとしても、その骨は何千年という時間の後には土に戻っていくと言います。これは死してもその期間、常に土に帰ろうと働き続けているわけです。つまり骨になったとしても私は生きているわけです。そうした働きも「全体」によるものなのです。ここが「全体」だからこそ、あるいは私が漏れなく「全体」として生きているから起こることなのです。仏というたった1つの現象(繋がり)だから起きてしまうわけですね。
全ての事象というのは「他者」と「自分」が繋がることで起きます。繰り返しになりますが、ここが「全体」だからこそ、起きてしまうことなのです。したがってあらゆる事象というのは「仏(全体)」なのです。どんな物事も、場所も、時も、ただ「それのみ」なのです。
安心して我々はこの世界に身を委ねればいいのです。
あるいは私が今、ここ、この自分の意思で「足を組むこと」、あるいは胸を張って生きること。これだけでいいわけです。それが我々の「唯一」だからです。
常に真実の種が、真実と繋がり、どこもかしこも真実が果たせられる。真実のみが現れている。電車にのっていても、お経をよんでいても、どこもかしこも真実のみ。「今、ここ」もつまりそうだ、ということです。
いずれもそれは同じもの、等しいものです。自分の意思だろうが、そうじゃなかろうがです。
坐禅、日々の生活、通勤。どんなものであっても、ここでのそのような「ありよう」または「形」というのは全体が全体していること。全体が全体されていることです。それのみです。
「この生死はすなわち仏の御命なり」
ここは全体の全体です。それのみです。我々は常に全てなのです。我々は常に仏に仏させられているのです。仏として仏をしているわけです。この世界にいることも、今こうして生きていることも、あるいは何かに対しうるさいと感じたり、痛いと感じたりすることも。ここが全体の全体だから、仏のみだから起きたことなのです。これからのこともそうなのです。心配いらない。
あらゆる事象というのは「ありがたいこと」なのです。
よって、そこでは好きなだけ、たくさん心配していいということです。どのような人生でもいいということです。



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