現在日本における禅宗は「曹洞宗」、「臨済宗」、「黄檗宗」の3つがあります。
その中で曹洞宗の「坐禅」は「面壁」をして行います。
また臨済宗と黄檗宗の「坐禅」は人と向かい合って「対座」形式で行われます。
今回、この記事では坐禅における「面壁」と「対座」、その形式の違いとは何なのか、その背景について分かりやすく簡単に述べていきたいと思います。
こんにちは「harusuke」と申します。大学卒業後、禅の修行道場で修行経験を積み、現在は都内でサラリーマンをしております。
坐禅の種類
「面壁」というのは左(上)の写真のように壁に向かったり、ガラス戸に向かって「坐禅」をすることをさします。
これは「曹洞宗」において一般的とされる「坐禅」のありかたです。
「面壁」においては「坐禅中」は「坐禅」」以外の一切は行われません。
一方「臨済宗、「黄檗宗」では「対座」と言って、人と相向かいあって「坐禅」をすることをさします。
この「対座」においては「坐禅中」に「拈提」などが行われます。
「拈提」とは「坐禅中」に「悟り」について思案することですね。
さて、インドから中国に「禅」を持ち込んだとされる「達磨様」や、臨済宗の開祖ともされる「臨済義元様」も元々はこの「面壁」の「坐禅」をされておりました。
「坐禅」と言えば「面壁」が主流とされていたんですね。
黄檗隠元和尚の影響
現在、京都の宇治にあります、黄檗山萬福寺の住職をされておりました「黄檗隠元和尚」という方が江戸時代に中国の混乱を逃れて日本へやってきて「黄檗宗」を伝えました。
元々「黄檗禅」では「対座」であったということからその時「臨済宗」もその形式を取り入れ、「対座」形式になったと言われております。
つまり相向かいに坐るようになったわけですね。
まぁそのように「黄檗禅」の影響を受けなかった「曹洞宗」はずっと、「面壁」を行っております。
壁に向かった坐禅を今日までしつづけているんですね。
しかし先ほども述べたように元々坐禅は「面壁」で行われており、壁に向かう、障子に向かう、ガラス戸に向かう。そういう面壁の「坐禅」であったわけです。
何故、「曹洞禅」は「面壁の坐禅」を守り続けている?
それでは果たして「面壁」とは一体どういう事なのか、何故「曹洞禅」だけこの「面壁」を大切にし、この形式を守り続けているのか。
「臨済禅」や「黄檗禅」にみる「対座形式」というのは言い方を変えれば「坐禅」を「悟り」に到達するための「手段」として用いていると言えるでしょう。
つまりは「坐禅」を手段とし、「悟り」の境地へ到達するというものです。
一方「面壁」というのは例えるなら、「社会に背を向け、他との兼ね合いを放棄した坐禅」と言え、「坐禅」そのものを「目的」にするというものです。
つまりは「坐禅」を「悟り」そのものとし、「坐禅こそが生命そのもの」であるというものです。
「面壁」と「対座」の違いは、「坐禅」を「命の手段」とするか「命そのもの」とするかの違いです。
「面壁」と「対座」の違い、それは「概念」か「実物」の違い
この「手段」と「全体」の違いについて理解しやすいように、ここでは人間の「概念」についての話題に少し触れてみたいと思います。
坐禅における「手段」と「全体」の違いは何か?
今回で言えば曹洞禅の「面壁」と臨済禅の「対座」の違いは何か?
それは人間生活において「実物」を重視するか「概念」を重視するかの違いと言えるかもしれません。
以下で分かりやすく解説していきます。
人間は非常に弱い動物であります。
昔我々の祖先(ホモサピエンス)が200万年前にこの世に生まれてきました。
その時にこの猿人類(ホモサピエンス)は他の動物たちの捕食対象となっていおりました。ライオンやチーターやらですね、そういう動物たちの獲物になっていたんですね。
この猿人類というのは非常に「か弱い」存在であったのです。
どのようにすれば自分たちの「命」を守れるか、そう考えた我々の祖先たちはどうしたかと言うと、
社会性を営む。
現在の言葉でいえば「コミュニティグループ」を作ったんですね。
何人かで社会性を営みながら生活をするようになったわけです。
その「手段」として用いられたのが「言葉」です。
「言葉」という非常に素晴らしい技術を獲得したことで他の仲間とコミュニケーションが取れるようになったわけですね。
例えば近くに外敵がいることを知らせたり、農作物のありかを知らせたり。
生きていくために「言葉」という「手段」を得て敵から自分の身を守るという事を我々の祖先はし始めた訳です。
ですから外敵から身を守ると言う点においてはこの「手段(言葉)」というのは非常に重要な意味があります。
これを「臨済禅」の「対座坐禅」に置き換えてみると、
悟る(生きていく)上で手段として「坐禅」(概念)を用いる
という風な考え方ができる訳です。
一方曹洞宗の「面壁坐禅」は面壁であるため、他とのコミュニケーションに背を向けております。
つまりは「坐禅」を「手段」や「概念」として捉えておらず、「生命の実物」として捉えているのです。
猿人類(ホモサピエンス)は生き残るために「言葉」という「手段」を用いました。見事にそれが功を奏し、こうして我々の命に繋がりました。
では、生きるうえ(悟るうえ)で、必要なのは果たして「手段」でしょうか?それとも「実物」でしょうか?
あなたはこの問いに対してどのような答え方をするでしょうか?
そしてこの考え方の違いが曹洞禅における「面壁坐禅」と「対座坐禅」の違いに顕著に現れているといえるでしょう。
筆者の個人的な見解はここでは述べません。
お許しください。
ともあれ曹洞禅の「面壁坐禅」においては、
生命の「実物」に立ち帰るということを何よりも重視しております。
「生命の実物に立ち帰る」というのは、我々が今ここに生きている「実物に立ち帰る」、「いま、ここを行じる」という事です。
「概念」ではなく、「実物」に立ち帰る。
そういう坐禅をする為に曹洞宗では長い歴史においても変わらず「面壁」をしております。
「生命」のそのもの(実物)を行じている
自己に立ち帰る、生命の本来の面目(目的)を行じているのが、この「面壁の坐禅」であります。
「実物」か「概念」か議論している間に真実は遠ざかる
「面壁坐禅」と「対座坐禅」を例に我々人類の生命において重要なのは「実物」か「概念」か。
その捉え方の違いについて述べてきました。
しかしそのどちらともいえないのが我々の実際の「命」であります。
正直な所どちらでもよいという考えを持たれる方も多いのではないでしょうか。
実際はその通りかもしれません。
またこのように「概念」や「実物」だのと議論している間にもどんどん本来の「命」から遠ざかってしまいます。
「真実」はいつでも「いま、ここ、この坐禅」を行じるしかないのですから。
その点においては「面壁坐禅」も「対座坐禅」も相違ありませんよね?
以上、「面壁坐禅」と「対座坐禅」の違いについて簡単に解説してまいりました。
お読みいただきありがとうございました。
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