雲居道膺(うんごどうよう)禅師は、中国曹洞宗の祖、洞山良价(とうざんりょうかい)禅師の法をついだ中国唐時代の禅僧です。
前回の雲巌曇晟(うんがんどんじょう)禅師に引き続く形で、今回はこの雲居道膺禅師がどういった方だったのか?についてご説明したいと思います。


雲居道膺(うんごどうよう)禅師とは?

雲居道膺(うんごどうよう)禅師、またのおくり名を「弘覚大師」といいます。
この雲居道膺禅師は、中国曹洞宗の祖、洞山良价(とうざんりょうかい)禅師の法をついだ中国唐時代の禅僧です。
正確な生まれ年は分かっておりませんが、902年にお亡くなりになられるまで、その期間、仏道に励まれた偉大な祖師です。
それを証明するかのように、この雲居道膺禅師の元からは数多くの弟子が生まれ育ち、その後偉大な祖師となられていくのです。
中でも「同安道丕(どうあんどうひ)禅師」や、「雲居道簡(うんごどうかん)禅師」が有名でよく知られるところです。
今のお二人をはじめ、その弟子の数は、なんと1500人はくだらなかったと言います。
今後、その若い世代が世界へと進出し、活躍していくわけですから、この功績は計り知れないところです。
雲居道膺禅師は、直隷省北部の「玉田」という場所の生まれで、師匠である洞山良价禅師の下で悟りをひらいたと言われております。
そしてその後は「雲居山」と呼ばれる場所に住んで、仏法を広められました。
中国江西省永修県西南に位置する険しい山のことです。頂上にいつも雲があるので「雲居」と言われるようです。
雲居道膺禅師から十一伝して道元禅師に伝わることとなります。

雲居道膺(うんごどうよう)禅師にまつわるエピソード
そんな雲居道膺禅師に関して、ここに一つ面白いエピソードがあります。
これは雲居道膺禅師、修行時代のお話です。
ある日道膺禅師は、お師匠さまである洞山禅師の道場の裏山にある「三峰山」という場所で坐禅をされておりました。
ところが何日たっても、洞山へ下りて来なくなってしまったというのです。
食事もとりにこなかったんですね。
そこでお師匠さまの洞山禅師が、いったいどのような修行しているのか、もしや自分勝手な修行しているのではないかと心配になり、道膺禅師を訪ねて行くのでした。
無事そこで、弟子を見つけることができたわけですが、お師匠である洞山禅師が「子(ナンジ)、近日、何ぞ斎に赴かざる」と言われるんですね。
つまり「お前は最近、皆なと一緒に食事をしていないようだがどうしたのだ。禅門では食平等と言って、修行僧は皆なと一緒に食事をするのが決まりだぞ」と言われるわけです。
すると道膺禅師は「実は私の為に天神さまが、毎日ワザワザ食事のご供養してくれるので、私はそれを頂戴して坐禅を致しております」というようなことを自慢気に答えるのでした。
そこで洞山禅師は「我れ将(マサ)に謂(オモ)えり、汝は是れ箇の人と、猶お這箇(シャコ)の見解(ケンゲ)を作(ナ)す在り。汝、晩間(バンカン)に来たれ」と言われます。
つまり、「私はお前こそ仏法相続の立派な後継者になれる人物だと思っていたのに、私の全くの見込み違いであったようだ。夕方になったら私を尋ねて来なさい。」と命じるのでした。
正しい修行をしていたと思っていた道膺禅師はそれが覆され、どこか不安な思いのまま、夕方になって道膺禅師が洞山禅師のもとを訪ねて行くと、いきなり洞山禅師に「膺庵主(ヨウアンジュ)」と言われます。
つまり「道膺さん!」と呼ばれる訳ですね。
師匠に呼ばれたとあって、道膺禅師は疑いようもなく素直に「ハイ!」と返事をしてしまうのでした。
これが洞山禅師の「お示し」だったわけです。
どういうことか?
つまりそこには「無条件の命のやりとり」が現成していたんですね。
本来の「命の正体」が現成していたんです。
師匠の洞山禅師から言わせれば、それまでの道膺禅師の修行は「自我意識」の延長で行われていたというんですね。
他の修行僧たちと行動を共にせず、自分勝手に行う。あるいは自分一人で悟ろうとする。自分一人で悟れるものだと思っている。要するに人間の自我意識の延長でその悟りがあるものだと思っていたわけです。
しかし洞山禅師をはじめ、仏祖方が大切にしてこられたお悟りというのは、自我意識の延長などではなく、生命の実物、この世界の真実のことです。それは決して人間一人の勝手きままな行動や概念の延長ではないということなのです。
「おい!」と呼ばれて「はい!」と返事をする。ここには一才人間の思惑がありません。
そのような生の命、真実なる命をお前さんは常にいただいているのだから、そう自分勝手にやってくれるな。他に悟りを求めるようなことはしなくていいのだぞ、と。
そのようなことをお伝えになりたかったのです。
本来我々の身に起こっていることや、この世界に存在しているものというのはそのような「人間の目的」や概念などが入りこむ余地がありません。
真実と「人間の思惑」は一切関係ないんですね。
「おい!」と言われ無条件に返事をしてしまう、その事実こそ「本当の命の在り方」だと言うのです。
お悟りだったというわけです。
そのことに気付いた道膺禅師は「三峰庵」に帰り、いつものように寂然として坐禅をされます。
そして天神さまが、再びお食事を差し上げようと、この道膺禅師を探すのですが、三日経っても道膺禅師を探す事が出来なかったというのです。
こうした面白いエピソードがこの道膺禅師には残されているんですね。

以上、お読みいただきありがとうございました。
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