道元禅師がしるした『学道用心集』は、仏教を学び実践しようとする初心者のために、参禅学道の心がまえを10箇条にわたって簡潔にかいたものです。
本記事ではそんな『学道用心集』が一体どういう書物で、どういった経緯で記されることになったのかについて解説していきます。
それでは早速確認してまいりましょう。
こんにちは「harusuke」と申します。
2012年駒澤大学卒業後、禅の修行道場で修行経験を積み、現在は都内に暮らしております。
さて、我々は寝て起きると「昨晩食べたもの」がきちんと消化されています。
それではその食べたものを寝ている間に消化してくれたのは果たして「私」でしょうか?
ようこそ、真実を探求するブログ「禅の旅」です。
学道用心集とは?
『学道用心集(がくどうようじんしゅう)』は第1巻からなり、道元禅師が仏教を学び実践しようとする初心者のために、参禅学道の心がまえを10箇条にわたって簡潔に書かれたものです。
この『学道用心集』ですが、正式には『永平諸祖学道用心集』といいます。
この『学道用心集』は道元禅師自身の体験に基づく修行上の心得が丁寧に説き示されており、参禅者の、特に初心者にとってはまたとない「教材」です。
学道用心集の成立
この『学道用心集』は天福2年(1234年)に成立したといわれております。
道元禅師は中国から帰国されたのち、京都の深草に興聖寺をひらきましたが、その間弟子となり修行したわずかな人々のために説き示し、1冊にまとめられたのがこの『学道用心集』です。
そしてそれは弟子の懐奘禅師によってまとめられ、その際「10箇条」になったのだと言われております。
学道用心集はどういった内容?
続いてこの『学道用心集』における「10箇条」の内容についてひとつずつ見ていきたいと思います。
1、菩提心をおこすべきこと
まず一つ目の「菩提心をおこすべきこと」では、仏道修行の出発点は「菩提心がおこることによるもの」ということが説かれております。
道元禅師は「菩提心」とは自己中心的な心を離れ、ただひたすらに仏の道を求める心であり、この「菩提心」がおこれば自己の名誉や利益を求める心は自ずから消滅するといいます。
そして「菩提心」をおこすことこそ、仏道修行の最大の目的であると説かれるのです。
この一箇条目こそ『学道用心集』の根幹であるという研究者は多いです。
2、正法を見聞してはかならず修習すべきこと
第二箇条目の「正法を見聞してはかならず修習すべきこと」では、いったん「菩提心」を起こしたならば、必ず正師について学び、積極的に実修すべきだという主張がなされております。
3、仏道は必ず行によって証入すべきこと
続いての「仏道は必ず行によって証入すべきこと」では、修行によって得られるものこそ「真実の実証」であるということが説かれております。
修行においては信心深い人、そうではない人、といった区別はなく、どんな人間であっても自分自身で修行を行うのであるから、それがいかに尊いものであるかについて説かれています。
4、有所得心をもって仏道を修すべからざること
続いての「有所得心をもって仏道を修すべからざること」では、仏法の修行者はかならず仏道の先輩である正しい指導者から真の秘訣を教示されて実践すべきであり、自分という一個のはからいで修行すべきではないということが説かれております。
仏道修行とは、自分のためにするするものではなく、ただひたすらに仏法のために仏法を修行することであると説かれているんですね。
この章は特に、道元禅師がただひたすらに修行に専心すべきだと主張されている部分になります。
5、参禅学道は正師を求むべきこと
「参禅学道は正師を求むべきこと」では、仏道修行においては、まず真実を求める心を起こすことが肝要であるが、この「発心」が実を結ぶかは正しい師匠との出会いにかかっているということが述べられております。
つまり「仏道修行」は指導する師匠が正しいかどうかで、その行方が変わってしまうということが強く述べられているんですね。
また正師とは年をとっているとか、経歴があるとか、文字を知っているとかではなく、学問と実践が一致している人の事を指し、このような正師について修行することが何よりも重要なのであると述べられます。
6、参禅に知るべきこと
続いて第6箇条目の「参禅に知るべきこと」では、参禅にあたって心得るべきことについて説かれ、それは安易な道を好むことなく、すすんで難行を実践することが重要であると説かれます。
かの中国第二祖「慧可禅師」は「達磨様」に法を求めるにあたって自らの臂を断ち切ったと言われております。
また或いは潙仰宗をお開きになった「仰山禅師」が出家の許可を願って、両親の前で自らの指を断ち切って志の固いことをあらわしたように、参禅とは「真剣」でならなければならないと説かれます。
そのように参禅学道においては、聡明、学問、理解が第一ではなく、覚悟をもって仏道にはいることが第一であるというわけなんですね。
したがって正師について法を聞くときは我見を捨てて、身心を整え、姿勢を正しくして、師匠の話を聞く事が大切なのだといいます。
7、仏法を修行し、出離を欣求する人はすべからく参禅すべきこと
続いての「仏法を修行し、出離を欣求する人はすべからく参禅すべきこと」では、仏法を修行し、迷いの世界を出て悟りの世界に入ることを願い求めるものは、参禅するべきだということが説かれております。
また仏道を学ぶものは正師、すなわち仏祖の教えの正統をつぐ禅僧について正しい修行をしなければならないということについて強く説かれております。
8、禅僧の行履のこと
「禅僧の行履のこと」では、修行者及び禅者の心がまえについて説かれております。
お釈迦様から伝わった法は、文字や言葉を超えており、世間的な執着を忘れ、すべてを突き詰めていくと、そこには何もないことがわかるのであると言います。
そしてそれができるのが「大自然」に従する「禅僧」だというんですね。
例えば禅僧であれば「動」と「静」そういった対立も忘れられるのだと言います。
そういった「真実の場所」を目指すべきだと道元禅師は説かれます。
9、道に向かって修行すべきこと
次の「道に向かって修行すべきこと」では、仏道を学ぶものは道に向かって修行する際、正しい道と正しくない道があることを知ることが大切であると説かれます。
また仏道というのはそれぞれの人の立っている足元にあるものだと強く主張されます。
なので自分がいつの時にあっても、仏道のなかにあることを信じ、特に初心者の内は坐禅によって身心をととのえ、心の働きを断ち切って迷悟を離れることが大切だと説かれます。
10、直下承当のこと
最後の第10箇条目「直下承当のこと」では、身心を真実そのものとするには、師について法を聞くこと、苦心して坐禅するとこの二つがあると説きます。
この二つを正しく運用することによって真実をそのまま実証し、受け取ることができると説きます。
学道用心集とは、まとめ
以上、『学道用心集』は10箇条にわたって、参禅学道の心得を説いているという事が、ここまでをご覧いただいてお分かりいただけたかと思います。
またこの『学道用心集』は『正法眼蔵随聞記』と似ている箇所が多いと言われており、この二つは禅を志す者にとって「教科書」ともいえるべき存在として現在も重宝されております。
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