今回は道元禅師がおしるしになられた「永平広録」の第471段の上堂を参究します。
『永平広録』第471段の上堂
上堂。云く、問あり答あり、屎尿狼藉す。問なく答なし、雷霆闢靂す。十方大地平沈し、一切虚空迸裂す。
初めに余談ですが、永平広録の編集の過程においては、道元禅師の後、江戸時代の卍山道白というお坊様が当時残っていたものを漢字におこして、日本各地に流布しました。それが永平広録「流布本」です。
それによって昔の人たちはこの永平広録を学ぶことができたんですね。
またそれよりも古い形で、かつて永平寺の禅師様でもあられた門鶴禅師という方が編集された門鶴本というのが昭和時代になってから永平寺で発見されました。
「流布本」よりもそれが古い形であり、本来の形に近いということで、それを元にこうしてブログでもお伝えしております。
という前置きをさせていただいた上で今回のお話に入っていきたいと思います。
問答無用で腹が減ること、これが救いである
今回の話は道元禅師の師匠である如浄禅師に関連した上堂でもあります。
道元禅師はこの如浄禅師や尊敬してやまない過去の祖師方に関する話をしきりにご自身の上堂の中で引用されます。
「問あり答あり、屎尿狼藉す。問なく答なし、雷霆闢靂す。」
今回のこの内容も師の如浄禅師にまつわるお話です。
我々人間は概念を持ち合わせている生き物です。概念とは厄介なもので、本来のこの世界には存在していないものとなります。しかしわれわれはこの概念に常に支配されてしまっているわけです。
そこでは納得が欲しいあまりに、質問したり、またそれに答えたり、またそれを聞いて納得したり、最終的に分かったような気でいる。
このような概念に支配された生活を、ここでは「問あり答あり」と、「有問有答」と言います。しかしそれは繰り返しとなりますが人間だけの世界でもあります。
それが何なのかというと如浄禅師から言わせると「屎尿を狼藉す」ということ。つまり大小便のことを指しているんですね。とても汚らわしいものだということです。
道元禅師の師匠である如浄禅師というのはそういった汚い言葉を平気で使います。
人間における「有問有答」は「屎尿狼藉」であるというんですね。そして我々の人間生活はいつもこのようなものであるというわけです。それは避けるべきものだと。
そうやって師が言うのは概念というのはこの世界に存在していないものだからです。それなのにその存在していないもののために苦労をする。喧嘩をする。非常におかしなことだと。
一方で「問なく答なし、」つまり「無問無答」、黙っている時というのは「雷帝闢靂す。」だと。
何も話さなければ突然に天地を開くような雷が起こるようなものだと。それは大自然に忠実な姿、大自然そのものであるからというわけですね。大自然そのものだから「雷帝闢靂す。」ということです。
人間生活は「屎尿を狼藉」に対し、大自然の生活は「雷帝闢靂す」。人間生活は避けるべきで、大自然の生き方を志すべきだということです。
しかしこの2つの生活があって、我々の人生があるわけです。なかなか黙っているだけというのは難しい話ですね。我々はどうしても概念に支配されてしまいます。
しかし地盤としては生身の体、生命の実物があっての概念運びだと。この無条件で酸素を吸ったり、排泄できる、何が何だか頭では解明できない体があって我々は概念を大いに働かせることができる。
これが事実のわけですよね。
問答無用で腹が減る。問答無用で痛い。問答無用でカラスの鳴き声やストーブの音が聞こえる。
大自然のあり方、今の我々の日常においても常に問答無用の命をいただいているわけです。
それが地盤で、それがあって、我々の人間生活が始まるのだぞと、それを忘れては困るぞということを戒めているわけですね。
このような詩があります。
これは「まどみちお」さんの有名な詩です。
この詩では常にちゃんと守ってくださるものがあるということですが、これは今回の上堂で言えば「十方大地平沈し、一切虚空迸裂す。」ということです。
問答無用で腹が減るということ、問答無用で聞こえるということ。また自分でこかないといけない屁があると言うこと。こうした紛れもない生命の実物をいただいている。それこそが救いであると言うこと。誰もがそうした命をいただいているということ。

この詩にもある通り、この地球上では誰一人として、同じ場所には決して重なることができない。足を組めば痛い。自分でこく屁がある。それらは全て仏様に守られているということです。
寝て起きて腹が減る。問答無用で腹が減る。これが如浄禅師が言う「無問無答」の「雷帝闢靂す。」ということであり、我々の命の根底であります。我々の救いであります。
誰かと比較することで不幸が生まれる。そしてその比較をさせているのが概念であるわけですが、その概念というのは本来この世界に存在しておらず、人間が勝手に作り出しているものです。
とはいえ人間にとってこの概念というのは習い性のようなもので、存在しているように思われてくるわけです。あたかも本当にあると思われてくるわけです。そこはうまく付き合っていくしかありません。
しかし根底としてはこのような問答無用の命、概念が一切関係していない命が流れているということ。皆その命をいただいているということ。これを忘れないでくださいということですね。
この問答無用の命が我々を包んでいる。見守っている。そしてその命というのがこの坐禅だということです。
足を組めば問答無用で痛くなる。本当に痛くなる。どんなお偉いさんでも、貧困な人でも、国外の人でも、例外なく。誰もが例外なく。誰にとっても同じ。誰にとっても同じ生命の実物。同じ救い。
つまりは大自然だということですね。
坐禅が「無問無答」の「雷帝闢靂す。」だということです。
坐禅が大自然そのもの、仏法そのもの。全ての命そのもの。
だから如浄禅師も道元禅師も、坐禅をおすすめになるわけです。
誰もがこの問答無用の命によって生かされているように、誰にとってもその今が坐禅のみである。まさに「只管打坐」であります。この世界は大自然のみが、真実のみが展開しているように、この坐禅以外他にはこの世界にはないからです。
我々は全て1つです。人間と世界、この薄皮一枚で隔たれていると感じてしまいますが、外が寒ければブルっと震える。そこで風邪をひいてしまう。一方で外が暑ければ体が暑くなり、熱中症になってしまう。こうして皮膚呼吸をもちゃんとしていて生きていくことができる。
世界と自分とに隔たりはないんですね。壁を殴れば痛いのは壁が私だからです。カラスの鳴き声やサイレンの音がうるさいと感じるのは、カラスや救急車が私だからです。でなければ耳が震わずうるさいと感じるはずがありません。
しかしそうではない。
世界と私とは全てが1つなのです。つながっているのです。全て私で、逆に言えば私などないのです。
今まで「屎尿を狼藉」だけで過ごしていた。人間生活が全てだと思っていた。
しかしこの根底に気づけたなら、この薄皮一枚で全てと繋がっているという事実に気付いたなら、また普段の日常がどれだけ救いのみの世界なのか気づけたなら、それだけで解決できる。決着できてしまう。
煩雑な説明となってしまいましたが、今回はここまでとさせていただきます。
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