こんにちは。爽やか日々が続きますね。朝方もだいぶ暖かくなり、布団から出るのが苦痛ではなくなりました。
みなさまお久しぶりです。
なかなか更新ができておらず申し訳ございません。
置かれた境遇などが変わり、その身辺整理などに追われなかなか忙しくさせていただいておりました。
今後はまた少しずつ更新していけたらと思っておりますのでよろしくお願いいたします。
こんにちは「harusuke」と申します。
2012年駒澤大学卒業後、禅の修行道場で修行経験を積み、現在は都内に暮らしております。
さて、我々は寝て起きると「昨晩食べたもの」がきちんと消化されています。
それではその食べたものを寝ている間に消化してくれたのは果たして「私」でしょうか?
ようこそ、真実を探求するブログ「禅の旅」です。
大好きな映画「フォレスト・ガンプ」
さていきなりですが、映画「フォレスト・ガンプ」が私は好きなのですが、あの映画では自分の人生にいろいろなことが起こるんですよね。
時には配達員をやったり、アメフトの選手になったり、戦争に行ったり。
そしてその戦争のせいで愛する人を亡くしたり。
彼(トムハンクス演じる「ガンプ」)の場合は自分でここはどうしようかといった選択はあまりしなくてその都度流されるまま生きていくわけです。
そして人生に翻弄されるわけでですね。
実際の我々の生活であれば戦死してしまったり、雇われた会社でうつ病になったりするともちろん嫌ですし、人によってその人生が良かった、悪かったという評価が出てくる。
俺の人生はつまらなかったなぁとか、俺はニートだなぁとか。社会のためになにもなっていないぁとか。評価もそれぞれに違ってくるかもしれない。
しかしそれでもちゃんと自分を背負って生きていかなければいけないんですね。
1989年4月に生を受けたこの俺。それ以降この俺という人間を背負っていくのはこの俺しかいません。
そのハンドルを誰かが握ってくれるわけではなく、そこにおいては屁の貸し借りすらできません。
どんなに今いる状況が本人にとって苦しくてもこれは変えようのない事実なのです。
しかしそれがある意味救済にもなるわけですね。なぜならそれは紛れもない世界の約束だからです。絶対的なものだからです。どんな状況であっても私は私で、私が生きていく世界では足を組めば痛くなる。そういった世界だからです。
それは優しい世界とも言えるでしょうか?安心の世界とも言えそうです。
仮に貧乏であっても金持ちであっても病であっても、健康であってもです。(病に関しては非常にナイーブな問題であることは重々承知しております。ここではそこは目を瞑っていただきますようお願い申し上げます。)そしてそこに人は初めて寄りかかることができるんですね。これが例えば概念による支えであればそうはいきません。なぜなら概念は人によって正体が変わるからです。
しかし足を組めば痛いというのは経済的に余裕がなくても、誰であっても同じことです。だからそれだけにおいては誰にとっても同じで、それは確実な支えとなります。なぜなら絶対的とは決して揺るがないことだからです。そして支えになるということは人によってはそれを安心と捉えられるからです。これがもし屁の貸し借りができてしまう、あるいは他人の人生を生きられてしまうとなると、そういわけにはいかないんですね。概念に頼っている間はいつまで経っても本当の安心は得られないんです。
誰かともとっかえひっかえできない命、比較できない命を生きているというのはつまり「安心そのもの」なんです。実は自分は自分しか生きられないというのは紛れもない「安心」なんですね。
私たちが何をしようと、金に目が眩もうと、美女にうつつを抜かそうと、よそ見をしようと、我々の身をおいている世界は本来そういうもので安心のみの世界なんです。
これはあるお坊さんが言っていたことです。
と。私たちが今こうして生きている世界はもし安心を求めるのであればそんな安心を与えてくれる救いだらけの世界です。
いま判断に強いられてて迷っている人も、そしてそこでBという道を選んでしまったばっかりに苦しんでいる人も、どっちに転ぼうがそれは関係ありません。
もちろん人間生活なので人によって良し悪しを感じるでしょう。なければ張り合いがなくてつまらない。せっかくであれば他人をまかすほど楽しい人生を手に入れてやりましょう。
しかし本来はどっちに転ぼうがなんですね。
遠くにある異国、まるで別世界のように思う海の向こうの世界でも、有名人でも一般人であっても、悩んでる人でも気持ちが晴れやかな人でも例外なく同じなんです。となるとガンプのように置かれた場所でただ人生に翻弄される人生もまた趣があって悪くないと思いませんか?
インドから中国に仏教を伝えた菩提達磨様。
当時中国の人間はインドからお偉いさんがくるというので期待したんですね。仏教のなんたるかをその人なら知っている!と期待したんです。
しかしダルマ様は布教活動など一切せず、嵩山の少林寺に入り九年間坐禅をし続けたと言います。
この世に救われるべき人間などいない、この世において悲観すべきことなど一切ない。仏教などそんなものすら必要ない。
とでも言われているのでしょうか?
その面壁九年を貫いてくれたおかげで今日まで仏教は伝わってきたんですね。
その坐禅をする姿こそ真の布教だったとも言えるわけです。
自分が自分を自分する「坐禅」、また自分は自分しかできない、自分が生まれてきたことこそ「坐禅」なのです。この世の全ては「坐禅」なんです。自分が今こうして生きているのであればそれだけで安心していいんです。自分が今こうして足を組んでみて痛くなる。それだけで最高の幸せなんです。それ以外の安心はないんですね。
人は生まれてくればよそ見をします。誰かに憧れて嫌になったりします。
自分は自分しか生きられないことに絶望することもあるでしょう。しかし自分は自分しか生きられないのはこの上ない喜びなんですね。本来喜ぶ必要もないんです。なぜならこの世の全ては自分だから。
ダルマ様のお言葉を借りれば「諸法無我」です。この世に我、自分などないということです。つまり言い方を変えれば全てが自分ということなんですね。
救われたいという思い、これは人間であれば至極当たり前です。人生は辛いのが当たり前ですからね。しかし救われるべきことなど本来ない。どっちに転ぼうと良い人生よ。これに至ることが出来れば日常はもっと華やぎます。どんなことがあってもどっちに転ぼうが良いと思われてきて、人生が楽しくなってきます。
それこそ仏教やイスラム、キリスト教の目的とすることであるように思います。その本来の我々の置いている世界、真実の世界のことをしっかりと言及してくれるのであれば、仏教であろうがキリスト教であろうが、イスラム教であろうが、どの宗教のどの教祖様でもいいわけです。
その宗旨における1番の人であろうが、2番の人であろうが、民間人であろうが、出家のものだろうが、在家のものであろうが、どの人間の口からでもいいわけです。
ちなみにダルマ様はどんなに転んでも起き上がることで知られておりますが、面壁九年の坐禅を経て足がなくなってしまったと言われておりますが、これに関しては諸説ありです。
ダルマ様も私たちと同じ生身の人間だったのですから。
それでは今回はリハビリ程度なのでこの辺にさせていただきます。
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