今を生きぬく

①生きていく上で、どうすれば「不安」はなくなるのか

現代社会において私たちは何を「救い」に、また何を「心のよりどころ」にすればよいのでしょうか?

いつどこで災害に見舞われるか分からないし、悲しいニュースは後を絶たない。
また昨今では未知のウィルスに脅かされ、今まで賑やかだった商店街のお店も次々に無くなっていく。
自分自身の命も「明日」どうなるか分からない。
何をしていても不安にかられ、生きる気力すら湧いてこない。
時代は目まぐるしく変化し、「流行」や「テクノロジー」は栄えては忘れられていく。
価値観や宗教観はそれぞれで、そこに統一性をはかることは今後益々難しくなります。
我々の日常生活における一切が猛スピードで過ぎ去っていく。

それに加え、

お金の問題
家族の問題
恋人の問題
老後の問題
健康の問題

こうした不安や悩みは無くならないどころか、これからも益々増えていきます。

そしてその不安や悩みは無くなることもないでしょう。

それでは一体このような不安と我々はどう向き合えば良いでしょうか?

そしてこの不安はどこからやってきて、何をもってすればこの「不安」は解消されるでしょうか?

お金を沢山持っていればこの不安は無くなるのか、最愛の人と結ばれることでこの不安は無くなるのか、素敵な家族に恵まれることで解消されるのか。

もしかしたらどんなにめぐまれた生活を送っていたとしてもこの「不安」は無くならないのかもしれない。

そう思うと、怖くて仕方ありませんよね。

しかし、我々がどんな「不安」や「病」を抱え、それが今後解消されることがない問題だとしても確かな事が一つだけあります。

それは、

この世界に生きるたったひとりの自分をしっかりと引き受けて、「死ぬまでその自分を生きぬかなければならない」ということです。

②「自分」を引き受けて生きる事とは?

どんなに恵まれた人であろうと、貧乏な人だろうと、明日までしか生きられない人であろうと、大病を抱えた人であろうと、生きている人間であれば誰しも「自分」から一瞬たりとも逃がれることができません。

一瞬たりともです。

そしてその自分を引き受けるのは自分しかいないのです。

「屁の貸し借り」も出来ないし、あなたのかわりにお手洗いに行ってあげることもできない。

本当に不便なものですよね。

しかしこれは変えようのない事実です。

だれか頭の良い人が考えた方程式のようなものではなく、絶対的なものなのです。

あなたの命を引き受けるのはあなたしかいない、これだけは曲げようのない事実なんですね。

そしてそれだけが我々人類に共通した「真実」です。

なので「真実」の生き方というのは、「豊かに生きる事」でも「幸せに生きる事」でもなければ、その為に「お金を稼ぐこと」でも「知識をつけること」でも必要ありません。

それはつまり、

「自らの命を引き受ける事」なのです

それでは「自らの命を引き受ける事」というのはどういうことでしょうか?

そもそも「命」とはなんでしょうか?

今こうしている間にもちゃんと自分を生きているじゃないか?

そう考えるのが普通だと思います。

しかし、果たして本当にそうでしょうか?

我々はいつも人間同士の価値観や社会の決まりごとに始終しています。

それはつまり、概念に縛られ、概念だけに生きているようなものなのです。

しかし、実際の命は違いますよね?

我々の「命」は概念や脳みそだけで動いているわけではなく、「生命の実物」そのものなのです。

なので「生命の実物」そのものの実践が「自らの命を引き受けるということ」なんですね。

だから道元禅師は「坐禅」をおすすめになるんです。

何故なら「足を組めば痛い」、「姿勢を伸ばせば背中が痛くなってくる」

このようなことは紛れもなく「生命の実物」ですよね?

誰かと比較した事象ではなく、きちんと自分の命を引き受けた行為です。

それこそが真実の命のあり方であり、本来の「命」の正体なんですね。

③何故人は生きねばならないのか

お釈迦様もそうですが、道元禅師も恵まれた家庭にお生まれになりました。

そして両者とも何故「人」は真実に生きねばならないのか、「人」が生きるというのはどういうことなのか?幼いながらにこういった疑問に直面しました。

我々現代人もそうだと思います。

誰しもが生きていればこの疑問と向き合うはずです。

また、道元禅師は人は本来生まれながらにして「仏」であるのなら、そもそも修行など必要ないではないか。

また「仏」であるというのなら、どんな悪行を繰り返しても良いのではないか。

このような疑問にも向き合いました。

恐れながら道元禅師の代わりにこの問いについて述べさせてもらいますと、我々は生まれながらに「仏」であります。

そしてそれは「仏性」を持っているから、「仏」であるわけです。

なので何もせずにいなくても「仏」であるというのは誤解です。

我々人間は、この「仏性」という花を咲かせなければならないし、真実に生きねばなりません。

「仏性」を咲かせるために生まれてきたと言っても良いかもしれません。

ならばその「仏性」の花を咲かせる為にはどうしたらよいか。

それはつまり「仏の行い」をすること、「仏行」を行うことです。

そしたら「仏行」とは何か?

それが前述した、「真実に生きる事」つまり、道元禅師のおすすめになる「坐禅」を実践することです。

何故なら仏とは「真実」を指すからです。

「大自然のあり方」を指すからです。

そんな「真実」の行こそがこの「坐禅」だからです。

いまどんな不安を抱えているとして、今後どんな不況に苦しんだとしてもこの「真実」に出会えたなら、我々人間は生き仏になれるのです。

④禅の旅に出かけましょう

当blog「道元禅師の旅zenno-tabi」では、道元禅師が初めて日本に伝えられた「禅」をコンセプトとしております。

道元禅師は『正法眼蔵』現成公案の巻で次のように述べられております。

道元禅師

「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。」

「仏道をならうこと、自己をならうこと、真実に生きる事。」

「私を生きぬくこと」、「自分を引き受ける事」が人間にとっていつの時代でも真実の生き方であります。

そしてその真実を生きるために普段の人間生活を忘れて仏の行をひたすらに実践する。

そういうメッセージになるんです。

当blog「道元禅師の旅zenno-tabi」は、「人生とは何か」、「人が生きる」とは何か、「真実に生きるとは」どういう事なのかを「旅」のように探求していく「blog」です。

道元禅師がおすすめになる「坐禅」はどのような時代であっても、またどのような人間であっても真実に生ききることができる、「真実の行」です。

是非、この「blog」で道元禅師の教えに触れ、充実のある日々を送ってください。

皆さんと、このblogを通して人生の「答え」を探求する「旅路」のようなblogになれば私はとても嬉しいのです。