いきなりですが「本当の優しさ」ってなんだとおもいます?
まぁそれを考える意義はなんなの?とか、何か得することがあるの?とかそういう探り合いは一旦抜きにして・・・
この「本当の優しさ」というのは、ロックバンド「くるり」が手がける「ロックンロール」という曲の中にも出て来るワンフレーズなのですが、学生の頃からよく聴いてて、それ以来、かれこれ考えるようになったんですね。
本当の優しさとは
よく「他人に優しくあれ、他人に優しくできれば上出来だ」そういった話を耳にします。
でも結論、人は独りよがりですよね。基本的には自分のことしか考えられられないはずです。
親身に考えられたとしても、まぁ子供や兄弟、親のことくらい?百歩譲っても彼氏、彼女のことくらいでしょうか。
それ以外の他の人間のことなどまったく微塵も思っていない。それが現実です。もはや他人は存在していないのと一緒ですね。
でもそれでいいんですよね。それが人という生き物です。どうすることもできない人間の「性」です。この部分を「優しさ」だとすると、私は未だかつて人に優しくできたことがありません。未だかつて一度も笑
反省の念もあるわけですが、自分に一生懸命になれれば、それでいいかなとも思うわけです。
人に優しくしたいところですが、本当どうしようもできないからです。
それでは皆さんは「自分」には優しくできているでしょうか?
自分のことばかり考えている我々ですが、その自分に対しては果たして本当に優しくできているでしょうか?
やりたいことをやる。体を休める。辛いことから逃げる。それは単なる「サボり」であって、自分に対して優しくしているということではありません。
そもそも「優しさ」の定義とはなんなのかもわからないのですが、このような概念が生まれたのは、他人を慈愛することによって、そこでの体験がどこか清らかで、満たされる気持ちになれる、それによって自分も幸せになれる、このような考えが人間には古くからあるからです。
しかし結局はそれは自分のために行なっていることで、生まれてきたからには幸せになりたいという狙いがあるからです。要するに自己満です。
他人に優しくするというよりは、「自分が幸せになる」。これが我々の求めていることで、この狭っ苦しい世の中において目指している場所なのではないでしょうか?
自分が本当に幸せになれば、世界が輝く。そしてその際に今回の「本当の優しさ」というのが見えてくるはずです。
要は自分自身を「本当に幸せにする」ことが、本当の優しさなのです。
それではどうすれば人は自分が幸せだと思えるか?
それは美味しいものを食べた瞬間や、宝くじが当たった瞬間、あるいは好きな人と付き合えたタイミングでもあるわけですが、それよりも人が自分の本来の目的、やるべきことを見つけられた時だと思うのです。
そしてそれが自分が自分を自分する「坐禅」です。
「坐禅」とは自分を行じることです。足を組めば痛い。その痛みは紛れもなく正真正銘の事象であり、つまり自分が自分を自分しているということだからです。
その坐禅があればこの世界にいるたった一人の自分を燃焼し尽くすことができる。そしてそれこそ全てが叶った瞬間になるはずです。なぜならそれは100%だからですね。
それこそ100%自分という存在を果たせている状態で、そこには全てが含まれるわけです。
ここは本当に重要なポイントなのでもう少し深掘りさせてください。
「自分が自分を自分する。」これが100%のわけですね。なぜならこの世には自分しかいないからです。その具体的な理由については後述するとして、要するにこの自分だけの世界でその自分を100パーセント燃焼させることができれば、それが我々の本来の面目を全うできる、全てが叶う瞬間であるわけです。
それはこの自分一人の世界において全てが満たされる瞬間でもあるわけです。
いうならば、そこには先ほどの「本当の幸せ」があり、夢があり、供養があり、親孝行があるわけです。自分が自分を自分する。これがすべてなんです。全てを叶えることができるわけです。今回の「本当の優しさ」もここに含まれていると思っていいわけです。
坐禅が全てのわけです。
坐禅をしている時こそ「全てが叶っている瞬間」であり、この自分という存在がなしえるあらゆる物事を叶い尽くす、食い尽くしている瞬間だからです。
私は実に欲深いです。もはや人間失格の域です。そんな私ですらこのことに気づけたとき、妙に納得できましたし、自分の生きる目的というものを見出すことができました。
相変わらず人には優しくはできませんが・・笑
また人によってはこの自分がやるべきこと(坐禅)を行っていれば、社会のしがらみから解放され、またやるべきことが見つかったことにより、視野の見通しがよくなり、あるいはそこで観念的に「人を幸せにできる」のではないかと思っています。
無論、本当の優しさとは「坐禅をすること」なのですが、そのような観念的な産物もいただけるわけですね。
この坐禅はあなた以外できません。そしてこれこそ我々一人一人のたったひとつの「夢」であり、「目的」なのです。
人間一人一人が、その本来やるべきことで自分を救い(自分が自分を自分するの中には全てが含まれる。よって自分を救うことにもなる)、それによって他を幸せにすることだったのです。自=他です。
そもそもこの世界には自分しかいません。壁を殴れば自分の手が痛くなる。人とぶつかればお互いに痛い思いをする。
あるいは真冬のバケツに手を突っ込むと、冷たさを通り過ぎ痛さを感じるように、このように命には「境界線」がないからです。宇宙=自分だからです。
このことを仏法では「諸法無我」と言います。あらゆる物事に線引きがない。
そんなたった一人の自分だけのこの世界で、各々その自分を幸せにすればいいだけなのです。自分が自分を自分すればいいわけです。自分に一生懸命になればいいわけです。むしろそれしかできません。自分しか存在しないからです。
生まれてきて誰かに優しくなどする必要は毛頭ないんですね。
しかし見方を変えればそれが他人に優しくするということでもあり、また自分に優しくするということでもあり、今回いうところの「本当の優しさ」ということなんです。
お釈迦さまを初め、だるま様や道元禅師がおすすめになる「坐禅」にはこうした深い意義が隠されているのです。
年配の人がいたら席を譲る、困ってる人がいたら手を差し伸べる。これは誰もが当たり前にやることです。考えるまでもなく行なってください。そこにおいては議論の余地なしです。
その理由はあえていうまでもありませんよね?


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